2006年5月30日 (火)
2006年5月26日 (金)
民法、とにかく決め
歴史的いきさつに満ちている。条文に書いてあっても、その地方の慣習がそうならそちらが優先される、というのさえある。
動産の所有権や立木の所有権のように公的登記がないものの所有権をどう正当化するか(立木には看板つければそれでよい)、土地を20年平穏に占有すると自分のものになる、とか、(勿論土地の所有権はなんであれ長い地球の歴史から見れば勝手に取得した一時的なものだが)、給与受け取りの時効は1年しかないのに弁護料の時効は2年とか、売買の危険負担は買い手とする とか、権限のない代理人でも誰が見てももっともらしい外見条件があれば契約は成立してしまう、とか、とにかく決めが必要なんでこう決めた、てな感じのものがやたら目に付く。
社会を転がすために必死にルールを決めている。頑張っているんですよ民法さんは。何もそこまでやらなくても、と思ってしまう。
しかし、人間くさい。進駐軍の押しつけに起源がある憲法は嫌になれば全面改定できても、民法全体の全面改訂はちょっと考えられない。無法状態のイラクはどうなっているのだろう、きっとフセイン時代のというよりハムラビ法典時代の法が生き残っているに違いない。
法律は味気ないものうんざりするものと思っていたが、読めばなかなか。
2006年5月22日 (月)
コヨシキリ
コヨシキリを多分初めてしかと見た。いつの頃からか、ギョギョシのオオヨシキリは栃木・鬼怒川の夏の風物詩と思っていた。コヨシキリはどこかで聞いたような気がしていたが、自分で探してしかとは見ていなかった。自分で見つけて納得しながら見ると、少し心が安らかになる。オオヨシキリより控えめで好ましい。白い眉がくっきりしている。「koyosik.wma」をダウンロード
逆に、何でもそうだが、野鳥を見に行くと、時折、この鳥を知っているか、或いは、今の鳴き声は何か、と聞かれてエイといい加減な答えをしてしまう場面がある。知らない・解らない、と答えれば良いのにさも知っているように答えてしまって、知らない、と素直に言えなかった時は暫く後味が悪い。
知識が深まらないと、素直な、知らない・解らない、は出てこない と思う。
2006年5月18日 (木)
21世紀はこんなことだったのか
21世紀になって大分たった。9/11やらイラク侵攻やら色々あったがそろそろ落ち着いてきたか、と思っていても原油が急騰したりまだまだ心休まるところがない。
このところ米国の株価が下がり始めている。米国の経済は、誰が見ても堅調・好調だった、しかしここへきて、もうこの好調は終わりに近づいているのではないか、という恐れが米国を覆い始めているように見える。
バブルとしか思えない不動産の上昇、失業率の極度の低下、日本のゼロ金利が根元にある低い長期金利、インフレの巧みな抑制、これらの好調な組み合わせは、誰もがそんなに長続きしそうにないと思い始めていた。
ここへ、G7から端を発したドル安で不穏な感じが出てきて、日本の金利が上がりそうで低金利で不動産に投資するうまみがなくなりそうになってきた、住宅好況が沈静化してきた、更に原油以外の物価の上昇が疑いようもなくなった、というところで株はここらが売り時とばかりに売られて急に下がり始めた。世界に米国の株安が伝搬して本当に経済が後退しそうな雰囲気が出てきた、というのが昨日今日の情勢のようだ。
在庫がだぶついているのに上昇している原油価格も奇妙だが、巨大な貿易赤字でもドル高が維持されていたのも奇妙だった。そろそろ調整の時期なんだろう。
それにしても、原油高で巨額のオイルマネーが中東に集まりそれがファンドに巡ってきて投機的資金がぐるぐる回る、こんないやな循環は終わりにして欲しい。でも相当な衝撃がないと簡単には終わるまい、考えているのも嫌になる。
以前はあこがれを持って語っていた21世紀はこんなことだったのか、と思いつつも、なんとかサイボーグになってでもこの先22世紀まで生き延びて、どうなりゆくか見てみたい、と思ってしまう自分を楽しむ今日この頃。
2006年5月16日 (火)
五月の空
5月の初めに五葉平奥へ三回ほど通って鳥を見たり録音したりして過ごしたが、思い返すとやはりこれが連休の過ごし方としては心に残っている。様々にさえずるキビタキ、オオルリ。「20060501_06_25a.wma」をダウンロード 色々録った中でこの録音の声が、ちょっと変わっていてその時はキビタキのような気 がしていたのだが、聞き直して、これはオオルリかもしれない、と思
い出すともう解らない。その時の現実は彼方に散逸し去って、取り戻せない、しかしそんなことはどうでもいい。
この時期を過ぎるとハルゼミの季節がはじまり鳥の録音は余り期待できなくなる。できるときにひたすら録る。
また一年間この時期の録音をCDでクルマの中で聞くことになるだろう、色々音楽は流してみるが結局自分の録ったものを聞くのが一番なじむ。
季節は畳み込むように緑を増し五月の空は過ぎていく
2006年5月11日 (木)
どうしようもなく自然の一部
庭に出ると花が次々に咲く。5種類くらいあるツツジがそろそろ終わりにさしかかる。コデマリがふくらむ。
庭の片隅ではスズランが次第に領地を広げ、花で主張している
エビネもまもなく、西洋シャクナゲもちらほら。ジャスミンも咲いる。
でも、本当は、この間 健康の森 の入り口から抜いてきたニセカントウタンポポらしいタンポポの花が咲くのが待ち遠しい。
造成した所に咲いていたのだけれども、他にも見慣れぬスミレなんかもあり造成で植物は拡散している。どこからの土だろうか。
人間が繁殖を助けている、人間の存在そのものがどうしようもなく自然の一部なのだから、これも自然の営みなのだろう。飛行機が飛べるのもクルマが走れるのも全てが自然の賜物といえるのだから。
逃げられない。
2006年5月 8日 (月)
あらゆる無駄を切れないと生き残れない
最近たまたま国内エアラインを利用する機会が増えて、思った、大手の正規料金で乗ったことがない。
エアラインの苦悩はアメリカにて顕著だ。アメリカの大手エアラインはここ5年ほど例外なく大赤字を出し経営苦況にある。その原因とされるのがロー コストエアラインとの熾烈な価格競争にある。ローコストエアラインは機種の1機種への統一から始まり、機体の待ち時間の短縮、要員コストの切り下げ、チケットのネット販売重視、機内サービスの低コスト化、燃料のオプション買い、運行を工夫してロードファクタ(客席の埋まり具合)をとにかく上げる、といった徹底した低コストに指向した経営を行い、安い運賃でも十分黒字でやっていけている。志気も高くお客の評価も高い運行で、急速にその勢力を拡大している。日本の航空業界はこのことをむろん熟知してローコストエアラインの台頭をなんとかかわそう、としているようにみえる。ローコストエアラインの整備にこのところマスコミの焦点が当たっているのは、だれかがマスコミに入れ知恵しているのではないか、と疑りたくなる、やや執拗な印象がある。既存エアラインと新たなローコストエアラインとの戦いはなかなか見応えがある。しかし最早航空輸送のローコスト化は避けられまい。
どんな手を使っても無駄を切れないと生き残れまい。あらゆる分野で多かれ少なかれ同じことが起こっている。
これでは息が詰まる、しかし、先を見るとこの向こうには合理的な無駄もビジネスとして利用される世界が広がり、管理された無駄・管理されたゆらぎに向かっているように思えてくる。
一体、これは 始まりの終わりなのか、それとも、終わりの始まり、それとも、永遠に続く?、(まさか、)と思う。