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2006年10月30日 (月)

季節が巡り

Trh2今年は紅葉に縁があるのか、やたら紅葉に出会う。

今回は武尊山の北の谷、照葉峡の紅葉だ。

水の流れと紅葉が重なるところが静と動がバランスして、過ぎ去っていくこの世の中をあらわに感じさせて、響く物がある。もみじ葉が落ちて流れゆくのか、世界全体が紅葉のように流れゆくのか、どちらでもよいことなのだが、とにかく流れ流れゆく。
今年の紅葉は綺麗だと思う。多分すこぶる個人的な感じ方で、客観的にはそうではないかもしれない。でも、こんなことは個人的な感覚が全てではないか。

羽田沼にオオハクチョウが現れた。まだ4羽だ、オオハクチョウのほうがコハクチョウよりHkcyo 早く来るのはやはり飛翔力の差なのだろうか。今日は疲れているのか飛んでくれない。

一羽若鳥が混じっていた、今回この場所を教えてもらったのだろう、次は自分でこれるようになるのだろうか。小さな沼に2000km以上離れたシベリアから正確に渡ってくるのはどんな仕掛けなんだろうか。伝書鳩が少し前までは現実に新聞社の屋上で飼われていて必要なときに記事を遠方から飛ばした、ということを思い出す、渡り鳥でなくても帰ってくるやり方を知っている、というのは鳥の種に固有の能力なのだろうか。確かに、生体磁石というものがあるらしい、しかし磁石さえあれば航法は万全というのもちょっと信じがたい。太平洋戦争中の日本の偵察機は自分の位置を確認するのがそうたやすくはなく、まともな位置報告がなかなか出来ていなかった、と聞いたことがある。昔の偵察機も磁石位は持っていた。

季節が巡り生き物が動きまた巡る、それすら、当然のものとして思いこまされているように感じる、たまたまそういう風に宇宙の組み合わせが出来てしまったに過ぎないのだけれども。

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2006年10月22日 (日)

時は容赦なく転がりゆく

予想されたことではあるが、この数日は夜間低層の雲が一向に晴れずに、ハレー彗星のかけらの作り出す流星雨をまだ見ることが出来ずにいる。もうそろそろ終わりのようで、もはや出会うことがないのだろうか。

早朝晴れるかもしれないと思って早起きしたがやはり曇りで、思い直して、上空の乾燥気団を期待して、今がピークの日光紅葉見物に出かけることにした。

朝5時前に出ても遅いことがあり得る、昔身動きできない渋滞にはまったことがあり、紅葉の時期の日光には空恐ろしさを感じて、そんな風に思っていたが今日はうまくいって高速利用で6時前には中禅寺湖畔を疾走していた。

いろは坂は小雨だったが、戦場ヶ原では天気の予想は、やや遅めになったとはいえ概ね あたり で晴れる雲の動きを見せていた。小田代に着く頃にははもう2006odsir2 良く晴れて霧が湿原から引きはじめていた。カメラの放列は相変わらずだが高さが以前より心なしか高い。灌木の成長に伴って段々カメラの位置が上がってきているみたいだ。今日は箱形カメラが目に付く。プロかセミプロか。朝の光が霧をかすめて落葉松林に黄金の輝きを与える。この美しさはこの時期の晴れた夜明けだけのものだ、休日の秋の晴れた朝にしか許されない。今年はこれで終わり、来年はうまく見れるだろうか、あと何回この風景に浸れるだろうか。一期一会か。

行けるときに行きたいところに行ってしまう、出会いたいものに出会ってしまう、細く長く暗く食い延ばすより、先のことは考えずに走っていく、始めるにもう遅いということはない、やりたいことをやりはじめる、こんな風に思っていても、時は容赦なく転がりゆく。転がっていきながらも真っ向から世界を正視することが大事なように感じている。風のように生きていくことがせいぜい出来ることに思えて、寂しくなることはあるけれども。

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2006年10月18日 (水)

暗闇が身近になると

オリオン座流星群が4日後の10月22日頃に極大を迎える。今年は新月に当たって条件がよい。オリオン座流星群はハレー彗星の落とし物から構成されているといわれるが、20年前のハレー彗星のぼんやりとした霞のような姿を思い出すととてもそれが20年にもHallet 渡る長い尾を引いていたとはなかなか理解が届かない。76年で1周するのがハレー彗星なんで、もはや見ることはできないか、とも思えてこれが最後の見納めと思うと見ておかねば、という気がしてくる。ハレー彗星を2度見れる人は殆どいない。
こんな周期だから彗星が生命の材料を運んでいるというのももっともらしく聞こえる。
遺伝子に書き込まれた最大寿命は一体何を意味するのだろうか、と時々思う。もしかしたら、種全体の寿命もどこかに書き込まれているのかもしれない。遺伝子の仕掛けを少しかじると、これが進化論と両立するのだろうかという気がしてくる、自然淘汰が遺伝子に複雑な記述を書き込んでいく有様がとても想像できない。誰かが書き込んでいったと思いたくなる。

多分人類がまだまだ知らないことが99%あって、理解できているのはほんの1%なのではないか。

夜が長くなって暗闇が身近になると、とりとめもなくこんなことに思いを巡らせたくなる。

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2006年10月17日 (火)

平和な時がおだやかに流れゆく

紅葉を求めて那須へ向かってみた。予想通り雲が低く紅葉見物には今ひとつ。一番上の駐車場から見上げながら緩やかに上がっていく。ナナカマドやカエデの色がいい。灌木を抜けてガレ場に入ると山頂が雲間から時々見えてくる。低いツツジが山腹を所々Nasukoy染めてきれいだ。ここらが一番いい。登っていく時は目の前の斜面の紅葉に見とれるが下ってくる人はすたすた行ってしまう。足下が気になって顔を上げて振り返ることが出来ない。山は往復同じ道をたどる方が味わい深いように思う。行きに見えなかった物が帰りに見えてくる。時も違えば光も違う。

甲州街道を少し走って神代植物園に行ってみる。深大寺そばを食べ損ねて、時間つぶしにぶらぶらする。秋バラがすごい。
人は多いけれども人の楽しむ姿をぼんやり見ているのもまたよい。
都会の秋も捨てた物ではない。

平和な時がおだやかに流れゆく。

時々昭和と平成を読み替えてみる、戦争の時代の時の流れの追体験ができる。
昭和18年10月 神宮外苑、雨の学徒出陣壮行会。同月、連合国、ナポリ占領。
ここから20年8月までの負けいくさは長い。
平成20年8月には何が起こっているのだろうか。

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2006年10月11日 (水)

自然の手の中で生きる

Ontaifu 台風のような低気圧がゆっくり北上していって海でも山でも遭難騒ぎが続いた。台風16号と17号のエネルギーを吸い上げて高空からは寒冷低気圧がかぶってきては、この低気圧が不気味なくらいに成長しないはずがない。
8日は霧降でも恐ろしくなるくらいの風が吹いていた。白馬や穂高で死者が出るのも当然な気がする。
予測計算は概ね当たっていたのだから知らせ方の問題の様だ。
風の強さは台風といわないと何故か甘く見てしまう。予測計算を事前に見ていても現実には山もあるし少しは緩くなるだろう、と思ってしまう。ちょっと情けない。
台風が化けて更に成長した964hpで最大風速が40ktの低気圧では台風のようなインパクトのある名前を付けて警戒を呼びかけないといけないのではないかと思う。例えば 化け台風とか、温帯台風とか。
Turusi しかし荒れ狂うのも純粋な自然の営み、霧降では 強風下目の前にダイナミックに生成する“つるし雲”が美しく、あきなく、みとれてしまう。

人間は生かされているだけだ。

ついにsotecのデスクトップパソコンが死んでしまった。
最後に  「デバイスxxx初期化中 Windows保護エラー 」との表示がむなしく、もはや働こうとはしない。この表示が出たら終わりらしい。レジストリのエリアのDISCにハードエラーが出ている。Safe Mode でscan disc を長々とかけたあげくがこれだ。
たちまち廃棄する手順に入ってしまう。Win98でしか動かないスキャナーも捨てなくてはならない。ま、すっきりしていいか。スキャナーは新たに発注をかける。ものは新しくなればまた新しい世界が広げる。

人間の作ったものだけれども勿論中身は自然の物理法則の手の中にあり怪しい作りには容赦しない、壊れることでそのことを思い知らされる。
ものも生かされているだけなんだ。

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2006年10月 4日 (水)

鳥を飛行力学的に感じていく

ひょうたんからコマというか、むしろ冗談からコマドリで、飛行機と鳥という題で話をすることになった。少し気楽に考えていたのだけれども少し資料を集め出すとこれは大変。感覚でいくしかない。
Amsg 鳥を飛行力学的に感じていくとミクロなところから気になることが出てくる。鶴のたぐいは足を後ろにきれいにのばして飛行する。多分重心をとることと僅かな縦の空力モーメントを作り出しているように見える。他の鳥はどうなっているのだろう。すぐに思い浮かばない。トビは飛んでるときには足なんか見えない。シギはどうなんだろう、サギはどうなんだろう。サギは鶴と同じだった。ケリは引っ込めている。カルガモは短く見えている。ハクチョウは隠れている。足の長さの問題のようにも見える。航空機だと脚は抵抗のもとだから長距離飛行を脚を出してやるなんて、という感じがするが鶴は足を長々と延ばしてなんとヒマラヤを越えて長距離飛行するのさえある。すこしでも縦安定を補強した方が酸素の薄くなったところでも頭を使わずに飛べて楽だ、ということかと考えてしまうが、あまりに人間と同じにみていて、ちょっと変か。でも面白い。こんな話は東先生の大著にもでてこない。まだまだ鳥の形というのは安定操縦性や性能や生活のための形を組み合わせているシステムとしてみると面白いことが色々ありそうに思える。

やはり時間が足りない。

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