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2007年2月 8日 (木)

だれかの手の中で踊らされている人類という種

Onag2 このあいだ羽田沼に行ったときにオナガガモの飛行を幾つか写真に撮ってきた、あとで見直してみると、池にはうんざりするほど浮かんでいるオナガだが飛翔の姿は綺麗だ。鳥は飛ぶところに真の美しさがにじみ出る、それが存在理由のように見えてくる。

石油や石炭は化石燃料といわれる。大昔、生い茂っていた木々や、海中に堆積してきたプランクトンの死骸が石炭や石油になっていった。植物プランクトンは海中の生物ピラミッドの最底辺を支えている、その意味で石油の元も植物だ。一方、近頃の、バイオ燃料はCO2にニュートラルという考え方で扱われている、これは京都議定書にも含まれているらしいが、すなわち植物が生成されるときに空気中のCO2を固着させた結果燃料の元が出来たのだからこれを空気中に燃やして放出するのは単に戻すだけだから自然に対してニュートラル という考え方だ。これからすると、石炭や石油もバイオ燃料であり、これを燃やしても太古に戻るだけ、ということになる。奇妙な気がするが、恐らくこの考え方はそんなに間違っていないように思う。太古の地球は大気がもっと濃いCO2で温暖だったのが非常に長い時間をかけて植物の力でCO2が固定化され地中に埋められた、この結果段々地球は寒冷化してきて大きな動物が住みにくくなり人間のような小型の動物の天下になった、というのではなかろうか。とすれば、産業革命以来人類がエネルギー源としてとして無尽蔵にもみえた化石燃料を掘り出して燃やし続けているのは、まさにパンドラの箱を人類が開封したことに等しいように思える。ここまで地球を人類にとって住み易くしてきたCO2の地中固定化である石炭や石油を一気に空中に解放すれば元の木阿弥で人類が圧倒されてしまう大型の生物が跋扈する温暖な地球が再び姿を現すのことになるのではなかろうか。だれかの手の中で踊らされている人類という種を感じてしまう。

CO2対策を必死に続けて乗り切れるかもしれない。しかし太古の温暖な地球というのも案外魅力的な気がしてくる、人類の存在がそれ程価値があることなのだろうか、とも考えてしまう。

鳥は飛ぶことで 生存に適した気候を地球上から自由に選び、寒冷化しつつある地球の環境変化を乗り切って恐竜時代から生き延びた。さて人類はどう変化するだろうか。

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