美しい夕日はその時その時だけのものだけれど
高層の季節外れとも言える冷気が低い高度まで降りてきたようで中層に厚い雲を広がらせていた夕方、どきりとするほど美しい夕日が雲の下に下りてきた。夕日に向かって車を走らせながら見つめるでもなし見てこの風景は覚えておかねばならないように思っていた。近頃は何気なく目に留まるものが気になる。
西行桜というのが湯津上にあるというので見に行った。しだれざくらで丁度満開だ。800年の古木にしてはよく咲いている。風情がある。
西行がこの桜の木を詠んだ歌として
盛りには などか若葉は今とても 心ひかるる糸桜かな
が伝えられている。これは花が散った後歌ったのだろうか、いまひとつぴんとこない歌だがとにかく西行だ。糸桜というと西行が好きのような気がする。
芭蕉は、奥の細道で西行の後をたどったといわれるが遊行柳には訪れてもここには立ち寄っていない。芭蕉がここらを通過したのは初夏で桜の季節はとうにすぎていたからかもしれない、しかし少し くらいは触れてもよさそうなのに何も無いというのは少々気になる。西行がこの桜を詠んだというのも本当だろうか、とさえ思ってしまう。
とはいえ、とにかく西行もこのあたりを歩んで北へ向かったのは間違いないのだから、詮索するのはつまらない。桜そのものはそんなこととは関わり無く、長い年月ひたすら花をつけ人の心に春を送ってくれている、それで十分のように思える。
美しい夕日はその時その時だけのもので流れ去っていくが、道の石にも樹木にも時の流れは刻み込まれていてその重なりが存在の重さをにじませている、時々それを感じてしまう。
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