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2008年1月10日 (木)

吉野ヶ里

正月のごみ収集が大分間があくので清掃工場まで捨てに行くことにして問い合わせたら福岡市内ではなく春日市にある南部清掃工場を紹介された、どうせだからと吉野ヶ里に見物にいくついでに寄ることにした。吉野ヶ里へは大宰府から高速に乗ればいいやと油山の麓を巡って春日市へ下道で向かっていたら右吉野ヶ里29kmの看板がある。まさかと思ったが確かに背振山の東を抜ければ近いかもしれない。改めて大宰府と吉野ヶ里と有明海の距離と位置を感じてしまう、近い。南部清掃工場は厳格な予約制だったが携帯で現地から予約すると直ぐに使うことが出来てあとは宇都宮の清掃工場と同じだった。ともかく済ませて曲がり角まで引き返して29kmの吉野ヶ里に下道で向かう。東背振トンネルというのができていい道になっているようだ。筑紫耶馬溪を過ぎて暫くいくとトンネルに入る。抜けて佐賀側はとても眺めがいい。道の駅からは佐賀平野と吉野ヶ里が遠望できる。山を背にした吉野ヶ里は北からの侵入に対して大宰府よりはるかに安全だ。

遺跡は平野よりやや高い高台のうえに展開していたが、発掘中の墳墓以外は全て保存のため埋め戻されて、その上に復元建造物が建てられている。環濠もやはり土をかぶせた上からコンクリのようなもので固められて、形はわかるが遺跡そのものに触れるという感じがしない。公園の趣がある。遺跡といっても要するに土の表面だから保存に重きが置かれるのはやむをえない。とりあえず目に付くのは集落の建造物の向きがてんでばらばらなYoことだ。一応祭殿だけは南北の方向だがあとはまるで山のテント場のようだ。計画されて作られた街ではない、長い時間をかけて大きくなっていった様がうかがえる。環濠の内側には水田跡は発見されておらず、いわゆる都市機能を果たしていたと思われる。甕棺の発掘現場をみたが、随分乱雑に窮屈に立体的に甕棺が埋められている、焼かずに埋葬すると場所もとる、長い間街を維持するにはこうするほか無かったのだろう。
弥生文化は移住を伴って海外からもたらされた文化といわれている。ここに住んだ人々は大陸から半島経由で渡ってきた人だろうか、追っ手を避けて安全なこの地を選んだのではなかろうか。
移住した弥生人はこのあたりから縄文時代の先住民を北と南に追いやっていった様にも思われる。しかし言葉はどうなったのだろうか、日本語はどこからきたのだろうか。一般には日本語はアルタイ系といわれるが単語のつながりは見えてこない。
興味ある説は日本語はタミル語の一種であるというものだ。大野晋という方が唱えておられる。真珠を求めて南部インドやスリランカあたりから移住してきたというのである。ちょっと無理があるようだが単語レベルは一致点が多く語順も同じらしい。古事記に記述されている内容は南方とのつながりが強いという工藤隆の研究もある。南方から流れてきた文化は否定できない。人骨なんかはどうなんだろうか。骨の研究からは北部九州の弥生人は明らかに大陸系の民族だった、西南九州は縄文人の変形で土着の弥生人だったらしい。色々考え合わせると大陸から渡ってきた弥生人は か細くて 文明はもたらしはしたが文化は土着の南方系のものに圧倒された、言語もアルタイ系の上に土着のタミル系がかぶっていった、と考えるのが自然のような気がする。背振山地の南側に位置する吉野ヶ里は丁度この接点にあったのではなかろうか。歴史的地理的経緯からは北部九州は朝鮮・中国の民族の動きに巻き込まれていた、吉野ヶ里は地理的にこれと距離を置けたのではなかろうか。考えていくと膨らんできてとまらない。

海に囲まれて長い時間をかけて文化を融合させてきた日本という国の成り立ちへの興味はどうしようもない。日本という島国にしかいない鳥なんかをみたりしていると大陸の興亡盛衰していった地域とは違った古い先史時代への紐のようなつながりを感じて漂ってしまう。

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