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2008年3月28日 (金)

TANKA

昔、ブリジットフォンティーヌBRIGITTE FONTAINEというフランスの歌手が好きで、レコードを集めていた。鋭くもBf1もろいかみそりの刃のような歌をうたっていた。今どうしているだろうと,ふとnetで探してみると まだうたい続けている。YU-TUBEにもいくつか画像をつかまえることができて、インタビューなんかを見ていると、気難しそうな老いた姿がそこにある、ラジオのように を出した頃のジャケットの若くてとんがった姿は大方遥かかなたにとび去っているが時折どこかに昔の片鱗を見る、昔の 恋人に出会った様というべきかもしれない、がちと年老いている。自分の上にも過ぎ去っている時間をまのあたりに見るようで複雑でもある。
BRIGITTE FONTAINEとARESKIが昔うたっていたなかにTankaという曲がある、勿論日本の短歌にその名は由来するのだが、ちょっと響くものがあった。BRIGITTE Brigitte のアヴァンギャルドな生き方が、短い表現にかける日本のうたにどこかつながるものを感じていたのではないか。そのせいでもないが短歌というものが何故かいつも気になっている。書いている文章のセグメントを切り詰めていくと57577になる、昔からそんなことを感じていたし、実際にやってみるとそうなった。短歌は日本人の文章表現の根底に流れているように思っている。かといって575の俳句は切り落としすぎている、そんな気もしている。何とかうたを書きたい。しかし、俳句でも和歌でも同人誌のようなものでは虚飾に満ちたレトリックに満ちた表現を尊ぶようなところがあって、いわゆる和歌の世界には違和感を感じている。時々小学生や中学生の詠んだもののストレートな力強さにはっとすることがある、むしろこちらが感覚的に近いような気がしている。短歌の入門本なんかを読むと日常のディテールを詠めばいいんです、なんていう表現に出会ってぞっとする、そんなものなら詠まなくていい、無理にうたにする必要は無い、何か感じるところがあって表現したいところがあって文章がありうたがあると思っている、当然のことだけれども。短い文章にあこがれているのかもしれない。

BRIGITTE FONTAINEをまた聞きなおしている。流れてくるものと自分の中の響き方が昔とは違ってはいるがまだ響く。啄木のうたをよみなおしている、短い表現だが自分では作れない素直さに、まだまだやることが、と感じてしまう、時間が足りない。

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