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2008年8月27日 (水)

20年8月が過ぎようとして

6年使っているパソコンがあちこち故障し始めた、もう限界かもしれない。またドック入りだ。

平成20年8月は過ぎようとしている、20年8月といえば昭和20年8月に思いがいたる。 昭和20年8月の出来事を追うと痛々しい。8月7日に国産ジェット機橘花が初飛行している、はっと思うのはそれくらいだ。8月15日に最後の空襲が小田原、仙台、秋田を襲う、全く無駄に命が失われる。8月16日ソ連スターリンは北海道を要求、18日米国トルーマンはこれを却下、同日ソ連は千島列島の占領に取り掛かる、9月3日に北方領土を占領してソ連は戦闘終了、北海道が残って良かったと思うべきかも知れない。戦争に負けるということはこういうことか、失うものが多い、野蛮だ。63年後ロシアは相変わらず南進したがっていてグルジア政府をつぶしにかかっている、次のサイクルが始まったようで、いやになってくる。

世界に民族が細分化して独自の文化を保っているさまは、どこか生物の種の多様性と似ている。生物はその多様性で古生代以来何度か訪れた絶滅の危機を脱している、同じように、人類という文明が生き残るためには多様な文化が存在することが重要なのだろう。百数十以上の国に分かれて独自に生きる、時には脅しあう、殺しあう、こんな仕組みと地球として生きることにどこかに妥協点はないものだろうか。多様な文化を維持したまま自由に国境を感じずに生活ができる地球になれないものだろうか。時が過ぎればそこまでたどり着けるのだろうか。
結局全ては地球に住む一人一人の心の問題なのだろうか。

パソコンはもう買い替えのタイミングだ、流れるように時は過ぎていく、未来へ延々と延びていく時の中で、今はとりあえずそれが気になっている。

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