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2008年11月28日 (金)

ハクガンとシジュウカラガンに出会う

伊豆沼でHakugan1 3羽のハクガンが飛ぶ姿をみた、外翼の推力を出す部分だけが黒くてなかなか美しい。ハクガンというのを手元のフィールドガイド日本の野鳥(改定前)で見ると3羽以上の群れは日本では事実上いないことになっている、3羽というのはこれはめずらしいのだろう。北極海ウランゲル島で繁殖を続ける東アジアのハクガンはその数が減ってきているらしいが、人の手で増殖を助ける試みもなされているようでそちらの成果が上がってきたのかもしれない。目立つ鳥だがマガンの群れにわずかに混じってもマガンは普通に受け入れてくれている、元は同じガンだという連帯感を感じる。
別の田で、親切な地元の方に教わって、シジュウカラガンが1羽群れに混じっているのを見た。写真Sijyuukaraには撮れず記憶からスケッチで描いてみると図のような感じだ、どうしても気になった頭が胴体より大きくなってしまう、まあしょうがない、こんな印象だ。ともかくこちらは頭が黒くて頬が白いだけでそんなにマガンと違うという様でもないがやはり群れになじんでいる。ガンは優しい集団のようだ。
極東のシジュウカラガンも絶滅寸前でこちらも人の手で増殖を助けようとしている、千島列島のエカルマ島で放鳥しているらしい。
  シジュウカラガンとカナダガンとはなんとなく同じもののような気がしていたが、まじめに調べるとこれが違う、学名はBranta canadensis leucopareia 英名はAleutian Canada Gooseでカナダガンの亜種とある。世界的に見ても絶滅危惧の種で日本では絶滅危惧IA類(CR)指定だからこれは貴重だ。アリューシャン一帯に生息する小型のカナダガンで首に白いリングがあることが特徴となっている、そこまで知らずに見ていた、首のリングまではとても見切れていない、次に出会うときはいつになるのだろうか。
雁の群れもそれを受け入れる人の目も優しい、この分ではまた出会えるだろう。季節はもう冬の空気で満ちている。

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2008年11月26日 (水)

蕪栗沼ふたたび

伊豆沼に来ると時間の経つのが早くて忙しい。早朝のいっせいにマガンが飛び立つ場面Magankb3_2 から夕方のねぐらいりまで13時間くらいの間がするすると過ぎていく。疲れてくる。忘れ物が目立ってくる。しかし、ここらあたりを走り回っている限り常に空のどこかにマガンの編隊がいて空から声を降らせる、これがいい。
それにしてもおびただしい数だ。夜明け前、蕪栗沼での飛び立ちを見る、2年前よりも確かに数が多いような気がする。圧倒される光景は2年前と同じかそれ以上なんだが なんだか飛び立つ前の次第にマガンの緊張感が高まっていく雰囲気が少し違う、今回はポンポンと飛んでいく。2年前に来た時期は今回より1週間くらい早かった、それだけ夜明けも早い、そんなせいもあるのか。
飛び立つタイミングを気をつけて見ていると今回は6時10分頃近くの東北本線の下り電車が通過する轟音で蕪栗沼の西奥にかたまっていた大集団の半数が、そして直後の上りの通過で残りすべてが突然に一斉に飛び立つ。たちまちそら中がマガンの声だらけとなる。前は電車ではなくてマガンの鳴き声の周波数が次第に高まって緊張がみなぎったところで飛び立っていたように思えた。今回は23,24日両日ともこうなのだから、この6時20分付近が日の出となる数日は日の出10分前くらいの電車通過時間が頃合となって正確に同じ時間に一斉飛びたちが繰り返されていることになる。大きな里山なんだここは、と悟る、人の営みと鳥の営みがどうしようもなく絡まっている。蕪栗沼の中の道を歩いていると大自然の中にいるような気がしてくるが、本当はそうではない、人の生活の場でもあることを知らされる。
だからといってどうということでもない。少しマガンとの距離が近づいたような気になるだけだ。

録音機を換えたのだけれども今回も録音はまともに録れていない、暗がりで高まる声にあわてながらボタン操作して押し間違えたようだ、これも人と鳥の絡みの一こまなのだろうとあきらめてしまう。その場でただただ感じることが全てだ、それで十分だ。

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2008年11月19日 (水)

日光菖蒲が浜にオオワシが来て

菖蒲が浜に着いてオオワシはいないかといつもの尾根を眺めていたら、そばから、オオワシ見ましたか、ほらあそこに、と教えてくれる、そういわれてみると稜線から少し入った枝にとまっているのがわかる。あんな大きな鳥でも枯葉の木々でうまくカモフラージュされてOwasi いる。スコープで覗くとこれは精悍だ、オオワシというとなんだかマンガに出てきそうで凄みのない姿ばかりが記憶にあったがこれは少しばかり違う、渡ってきたばかりでピリピリしているのだろうか。写真を撮ろうと構えかけたら、サッと飛び出す、カラスに追われている。カラスから追われるオオワシも情けないが縄張りなんだろう、今日はカラスが多い、オオワシやオジロワシのよくとまっている枝も数羽のカラスが占領している、渡って暫くはおとなしくしているのだろうか、追われるように尾根の裏側へ姿を消してついに写真には撮れずじまいになった、まあしょうがない、またくるか。

雨がまたぱらぱらと降りかかる、近頃は雨の日の鳥見もまたいいと思えるようになっている、小止みになるとサッと出てくる、そうでなければ木の下で雨宿りしている、そんな姿もいつもと違うようで面白い。

湖には遠くにオオバンやカワウがぷかぷかと雨を気持ちよさそうに浮いている。

あるがままがいい。

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2008年11月18日 (火)

収穫祭にて

Cocofirm 土曜日に今年もまたココファームの収穫祭にでかけてみた。少しずつ感じることが違ってくる。宣伝されているとは思えないのだけれども、とても混んでいる、万の単位の人がいる気がする。ココファームのホームページに行っても収穫祭の案内をなかなか見つけることができない、リピーターとその口コミでこんなに来るものなのだろうか。今年で25回目だが最初のころはほんの内輪の集まりだったという。繰り返すことの力を感じる。来たのは3回目になる、同じ砕石場の駐車場所に停めて同じ道を歩く、山道の同じところに出店が出て同じものを売っている。新鮮な驚きが薄れていっている。エントリーフィーは2000円に上がったが、そんなものだろう。同じように坂田明のバンドが演奏する、こちらはくたびれていない、切り口の鮮やかさをキープしている。出した音がそまま空中に吸い込まれていって元には戻らないのが音楽だ、1回1回がその場限りのものだ、とりわけJAZZはそうだ、それが新鮮さの源なのだろう。坂田には、深まりと衰えを知らない即興がある。ココファームの入所者は平均年齢が上がってきているらしい、新しい入所者が枯れてきているようだ。主催者の園長の挨拶もたどたどしくなって年が容赦なく過ぎていくのを感じさせる。音楽もワインも食べ物も上質でゆったりした時間を感じながら転げ落ちそうな斜面で過ごす感覚は他ではない一流さがある。しかしキープすることは難しい、常に入れ替わる仕組みの学生とは違い関係者の顔ぶれが変わらず毎年1つずつ年を重ねていく集団はキープしようとしてもぼろぼろと枯れてくる、こころみ学園にもそんな雰囲気が出始めているのかもしれない。新しいことへの拡大、グループの代替わり、そんなものを時は常に要求してくる、冷酷でもある。身近にもそんな難しさを何回か経験したことがある。坂田の響きを思い出しながら、プレーヤー自身の深まりと即興性か、そうかもしれない、それができなければ時によって消されていくということかもしれない。

来年はどう感じるだろうか、新しい次元へ転がり始めるだろうか、しかし難しいことはどうあれ来年こそは電車で行かねば。

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2008年11月14日 (金)

デジタルな消費

Zumi 写真がたまってはネットで写真を焼いている。送料込みで1枚11円位だからフィルムでの現像と焼付に払っていた合計より安い。写真に焼かなくてもデジタルなままでもいいか、という気もするが、デジタルな記録は見える形に落とさないと一抹の不安がある。ともかくメディアのSDカードを保存用のCDromに焼いては写真にも焼いてクリアしている、こんなことは長くは続かないかもしれない。近頃はSDカードはとても安くなったので一々CDromに落として保存しなくても良くなったようにも思うが、一体このSDカードがいつまで読み書きできるのだろうか、10年持てばいいほうではないか、(勿論CDromもしかりだが)、フロッピーはもはや時代のかなたに飛び去ったがせいぜい15年位前のものではないか、同じ運命をたどるのではないか。最近はSDもマイクロSDに押されてきたように見える、アダプターをつければ使えるのだがそのうちアダプターが効かないのが出てくるのではないかと思ってしまう。なにしろ2年で集積度は2倍になるというムーアの法則がまだ力強い、10年たてば15倍の密度になる、SDの仕様では持たない。デジカメの寿命も頑張って5年ではないか、こんなめまぐるしくも消費し続けるデジタルな文明はどこで終りが来るのだろうか、デジタルの先にはバイオがある、そう考えられ続けてきた、そろそろ生物の領域に踏み込んでこられたようにも思う、10年もたてば遠目には変わらずともうごめいている小道具はまったく新たな領域に進化しているに違いない。どこかでアナログに定着させなければ人類の記録そのものが保持されなくなることになりそうだ。結局デジカメの記録をもう一度ネガフイルムに焼き付ける時代が来るのではないだろうか。
そうはいってもアナログは場所をとる、現に本に部屋を占領されていて、増殖はなかなか止められない、紙は溜まる。どこかで整合させなければと思いつつ先へ先へと進んでいる、いつも思う、どこへ向かっているのだろうか。誰もコントロールしていないのだろうか、先には終末しかないのだろうか。

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2008年11月10日 (月)

卷雲が

秋の空が高くて筋Ciのような綺麗な雲が浮かぶ。卷雲(Ci)の毛状雲(fib)のようだ。雲の分類は10種雲形と呼ばれる基本の類に、種と変種、副変種がつく、一応リンネの分類の体裁をとっているが、生物よりはよほど文学的で、毛状雲といった種や、変種副変種はそう名づけるには大げさでなんとなく気恥ずかしくなるような気もしてくる。卷雲の筋は氷晶の落下の筋だといわれる。その落ち方のパスで毛状になったり鉤状になったりして種名がつく、生物の種のようにDNAから識別できるというたぐいのものではない、あくまでも氷の粒の飛び方を分類しているだけだ。卷雲は対流圏の上層の成層圏との境目となる圏界面の少し下あたりにできる。高空で飽和水蒸気から氷晶が析出、地上でいうダイヤモンドダストとなって更にこれが接触しあって大きさを増しながら落ちてくる、このとき高度で風速が大きく変わると落ちるパスが刷毛でひいたような筋になるという仕掛けだ。高度で風速が変わらないと、エアマスとしては止まっているも同然なので固まりは崩れずに筋にも見えない、下から見ると雲の固まりが流れていくだけとなる。
秋になると卷雲や卷積雲や卷層雲が秋らしい空を形作る。時々、何故秋の雲というのがあるのか、と気になる。少し考えてみる。秋の空にはいくつかの物理的特徴がある。地球の気象の基本のひとつは南の夏の気団と冬の気団の押し合いにある、夏の気団は赤道で起こる多量の上昇気流がベルトとなって中緯度で下降してきて地表で高温となる背の高い高気圧を形成する、ハドレー循環と呼ばれる流れだ、一方北極では逆に冷たい重い大気が地表を覆い、対流圏の厚さを引き下げる。二つの基本的に性質の違う気団が中緯度でぶつかり押し合う、ぶつかるところにジェット気流が形成される、冬の気団では大気が地面付近に下りていってしまうため地面付近では高気圧だが上層では手薄になって低気圧になる、南の気団は全体が下降気流で層が厚く上層でも高気圧となる、風は上層の気圧の傾斜が最もきつい境目で南から北へ噴くところ南風が地球自転のコリオリ力で西風になってしまいジェット気流を形成するという仕掛けだ。ジェット気流は流管のようなもので高度で風速が大きく変化する。高層の大気の観測結果は毎日Kaze2 朝晩発表されていて容易にその状態を観察できるのだが見慣れるとこれが面白い。秋になるとジェット気流が北から押されて南へ下がってくる、ジェット気流の直ぐ北側は圏界面が低く上層のジェット気流にともなう西風もまだ強い。圏界面が低いと上層の雲もそれだけ下がり見やすくなる、また、海から出される水蒸気も上層までたどり着きやすくなる、これに加えてジェット気流の直ぐ北側は風と気温の変化が大きく上層は乱気流となり上層雲を作りやすい、おまけに低層は重い空気で安定して雲が少なくて上層雲を隠すこともない、こんなことが重なって、ジェット気流の直ぐ北側に広がる空は秋らしい卷雲や卷積雲ができやすいし見やすくなる様に思う。高い空が降りてきてくれるというのが秋の空だ。

卷雲が空の半分を覆う日、気温が急に下がった、今までとは違った鳥が突然現れるようになる、鳥が山から下りてきたようだ。渡りというほどでもない、空が降りてくるように寒い山では冬は越せないと鳥が里山へ降りてくる。これが思えば四季に恵まれた山のある島国日本の特徴ではないかと思えてくる。なかなかいい位置にある、いいくにだ日本は。

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2008年11月 6日 (木)

ジョウビタキが来た

朝が寒くなってきた、明日は立冬という朝、朝食をとっているとヒッヒと外で声がする、来たか、と思ってガラス戸をあけると、直ぐそばのテレビのアンテナに来ている、ジョウビタキだ、逆光で見にくいがメスのようだ。去年は立冬の日に現れたので今年は1日だけ早いとJyoubi081106 いうことになる。しかし思いのほか正確だ。立冬は秋分と冬至から決まり、太陽と地球の位置関係を正確に表している。太陽の動きに応じて渡っていることになる、やはり天測で動いているのだろうか。写真を撮ろうとカメラを向けかけたら逃げられてしまった。渡ったばかりでまだピリピリしているようにも見える。記憶で描くとこんな風だ。なんだか大きくなってしまう、記憶の中では膨らんでくるものなのだろう。暫くいてくれるといいが。
山から忍び寄る冬がもうそのかどまで。

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2008年11月 5日 (水)

朝霜降る尾瀬にて

ジェット気流が南へ次第に下がって秋の高い空と冷え込む朝をもたらすようになってきた。朝霜の景観がすごいという声に誘われて晩秋の尾瀬を歩いてみた、驚くことが幾つかOze1あった。鳩待峠までクルマで行く、連休の土曜日だが駐車場は十分余裕がある、天気が 悪いせいだろうか、1日2500円という駐車料の高さもあるようだ、途中の料金表示看板の前でためらっている車もある。雨が殆ど上がった昼前から尾瀬ヶ原へ向けて歩き始める、非常に立派な木道が整備されていて驚くばかりだ、1ヶ月前に歩いた裏燧林道とは大違いだ。追い越していく若いグループはほんとに荷物が小さい、この日はそれほど強い印象でもなかったが翌日の戻りでは良く晴れていたせいもあって、峠から降りてくる人人のあまりの軽装と殆ど荷物のなさに驚く。3歳か4歳くらいのほんとに小さな子供をつれた姿もみる、公園の散歩と雰囲気が変わらない、特に中国からの団体旅行者らしい姿にその傾向が顕著だ。晩秋の尾瀬は天気が急変すると遭難もしかねまじきところだ、以前、有名な登山家がこの時期の尾瀬で遭難死したことすらある。どうなってしまったのだろう、そのうち何かが起こりそうだ。至仏の麓の山の鼻の小屋まで下る、ここの小屋の一群も立派だ、しかしもう閉めている、冬支度で片付け始めている、今は竜宮小屋しか開いていない、そんな時期だ。次の日に行ったヨッピ橋は雪が積もっても橋が壊れないよう板がはずしてあって骨だけになっている、相当な覚悟がないと渡れない、そんな時期だ。
山の鼻から尾瀬ヶ原に進んで来るとさすがに散歩風情の姿はなくなる。今度はカメラマンらしい重厚なカメラ装備の姿が目に付くようになる、勿論にわかカメラマンも多いのだろうが殆どがとにかくデジ1眼を抱えている。これはまあ驚くには当たらない。尾瀬ヶ原は広い、あまりに平坦だ、歩いていると次第に飽きてくる。後ろに至仏 前に燧を見てひたすら歩く、ぼこぼことあった層積雲が次第に取れてくる。しかしほんの小雨も時には降りかかる、と見ると虹だ、尾瀬ヶ原をまたぐように虹が出る、虹の足は平原と山の境目辺りに見える、かなり近い、飽きないように自然がしつらえてくれるようで楽しい。竜宮小屋は今や山小屋はここしか開いていないので勿論満員、1畳一人に近い詰め込みとなるがまあ山小屋らしい。これも驚くには当たらない。
日が暮れて鋭い三日月が山のかなたに沈むと満天の星が広がる、これはすごい、当然の星空にも驚きを感じる、月がなく快晴で風が弱くて星見日和だ。天の川に浮かぶ白鳥が高い。星が多すぎて、北斗星すらどれだか自信がなくなる。こんなときはそれと直ぐにわかるすばるが心強い。星が流れる。見ていると、また流れる。オーストラリアの砂漠で見た満天の星を思い出す、地平線に沈む星を飽きもせずみていたがここでも山の端に沈む星が見える、どこかこちらの方が優しい星空だ、きっと湿度のせいだろう、あの睨まれるような星空とは違う、尾瀬にふさわしい夜空だ。
そして霜の朝。夜明け前、地平の下から太陽が山にかかる雲を赤く染める、綺麗だ、刻々と色合いと形を変えていく、絵のようだというのもおかしな感じだが本当に絵のようだ。一Oze2 面の霜だ、枯れた草原の葉一枚一枚が更に細かい模様を書き込まれたように緻密な細密画の世界が広がる。ほんのり色づけられた黒白の世界に囲まれる。とにかく写真に撮る、暗くて自動露出では感じが出ない、ピントも合いにくい、すべてマニュアルで撮る、こんな撮り方は久しぶりだ、慣れると次第に思うようなトーンで撮れる様になる、スローシャッターはストックで支えてなんとかしのぐ。鳥の声が時々する、何だろうか良くわからない、つぐみもいるようだ。草原に陽が差し込むようになると霜はそこから緩やかに解け始める、草原は一時も姿を同じくしない、確かにこれはすごい。
平常の空気に変わった8時前に山小屋を出てまたゆっくり戻る。鳥も色々出ている、カシラダカ、ベニマシコ、ホオジロ、ツグミ、林に入るとコガラ、コゲラ、シジュウカラ、ゴジュウカラ、キバシリ、そしてオオアカゲラ。この時期の鳥は大体がすばしこくてゆっくり見れないがオオアカゲラだけはわき目も振らずに枯れ木をつついてじっくり姿を見せてくれる。鳥もなかなかいい。
冬は本当にそこまで来ている、しかし尾瀬ヶ原の穏やかな寛容はこの広さだ、中国の団体が席を埋める鳩待の小屋の売店でそんなことをぼんやり思っていた。

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