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2008年12月14日 (日)

アンドリュー・ワイエス

かもしかが華厳の滝に住んでいるらしいというので見に行ったが見つからない、大分粘ったがだめだ、それではオジロワシかオオワシでもと菖蒲が浜に回るがここも外れだ、こんなこともある。
時々東京に出る、出たついでに大体は美術展を一つは見る、多分東京に住むとかえってみないのだろう。しかし池袋に用事があるときはそうもいかない、まともな美術館がない。困った街だ。
池袋ではなく渋谷に出かけることがあって、行きすがら、何かやってたような気がしていて思い出した、アンドリューワイエス展だ、Bunkamuraでひらかれているはずだ。アンドリューワイエスの展示会は30年くらい前にみた記憶があるがもう薄れている。しかし1-2枚は時々Aw 見る、心に残る描き方をしている。今回はどうだろうか。
久しぶりの夕方の渋谷の街はどうしてこうも女性であふれているのだろうか、かきわけながらBunkamurにたどり着く。アンドリュー・ワイエス/創造への道程 と掲げてある。
出展された作品は、丸沼芸術の森の所蔵品がかなり多い、だから悪いわけではないが、すこしばかりあれっというような気分になる。しかし1枚目の鉛筆画の自画像から見入ってしまう。鉛筆画の精緻度がとてもできない圧倒感で満ちている、こんなことが鉛筆と紙だけでできるんだ。下絵を何枚も水彩で描いている、そのコントラストの強烈さ、劇画のようにも見える。作品の緻密さはいつ見ても驚嘆するが、下絵を見たうえで作品を見ると、少しばかり違う。作品は下絵を再構成している、緻密な絵の元はすでに作者の頭の中に入っている、どんな光線も一瞬の動きも細密に再現することができるようだ。入り込めそうな現実とはわずかばかり異なる亜現実の世界。一枚の作品に一体どれほどの時間が費やされたのだろうか。
下絵から作品へと追っていくと一種の鮮やかさが薄れているのを感じる、リアルな世界から亜現実の世界への変質を感じる。作品だけ見ると現実そのもののようだが、違っている。おびただしい言葉が埋め込まれているように感じてくる。
緻密な再構成と最初の精緻を極める鉛筆画、これがアンドリューワイエスの世界だった。
いい企画だったと思える。
どうやったらあんな鉛筆画が描けるのだろう、少しばかり滅入って かもしかのみつからない華厳の滝をスケッチしながらそう思っていた。描いていればいつかは自分なりにたどり着けるかもしれない、そうも思っている、人のやることだ。

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