グローバルなルール変更
最近エッと思った話題に、いまの新自由主義的改革、すなわち、規制緩和、小さい政府、市場に任せればうまくいく、の考え方を1995年から2000年頃政府の中枢で先頭で進めて きた経済学者中谷巌が、間違ってました、という懺悔の書を出版したという話がある。東洋経済のネット版に中谷のインタビュー記事が出ていたが、そのとおりの発言で、この期に及んでそれはない、といいたくなる。正直に告白したのは格差社会が進行して多くの人が不幸になった、日本社会のよさが確実に失われた、その原因を主導して作った重みに耐えられなくなったためだろうか。
江戸末期から明治の初めに海外から日本に訪れた外国人の目には日本は競争のない奇跡のような優しい国だった、誰もが働けるように喧嘩せず話し合って仕事を分け合っていた。談合という言葉の響きが良くないが、弱者を蹴落とす競争を話し合いで止める社会だった、そこに日本の平等志向の原型があったように思う。競争で奪い合う社会から思いやって分け合う社会へねじを戻さなくてはならなくなったようだ。ワークシェアリングというカタカナで有難がる仕組みではない、日本が元から持っていた原風景だ。
資本主義を野放しにしてはだめだ、というのが前の恐慌の教訓だったのではなかろうか、それがいつしか緩んできて、またおかしくなった。
資本主義の欠点は個人の欲求に基づく市場の暴走にある、個人レベルの倫理観では解決できない、同じ状況下では世代の違う個人は同じ判断をして同じことが繰り返される、変えたければ公的機関による規制とコントロールのしくみが必要になる。当然のことだが肝に銘じておかねばならない。個人レベルでは世代を越えては決して学習しない、小さい政府では暴走は止められない。
中谷巌が懺悔するのも個人的心情として分かるような気もするが、当時は失われた10年の閉塞感を打ち破りたいとの意識から、新資本主義的な小さな政府の考え方にはそれなりの魅力や説得力があったように思う。むしろ何故多くの人はそのような状況で後から考えると少しばかりおかしいと思うことを嬉々として受け入れたのか、と見た方が真実に近づける。今回は明らかにグローバリズムが前面にある。共通のルールで戦わなければ敗退する、との考えが根底にあるように思う。
競争から分かち合いへのグローバルなルール変更が見出されるまで同じことが繰り返されるだろう。新しいルールとはなんだろうか。世界政府が主導する適度な規制だろうか、なんだか息が詰まりそうだ、難しい。
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