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2009年3月31日 (火)

そのままの今が

たまたまネットで応募した世田谷美術館の平泉展の切符が当たって、高速代も都心に向けても少しは安くなったらしい、都心の花も頃合かと砧公園までクルマで出かけた。花はお江戸に限ると思っている。せっかくだからと北池袋から中央環状線の走ったことのない長いトンネルを抜けて高井戸で環八に出る。地震でもあったらと気味が悪くなるくらい長いトンネルだ、逃げ場がない、やはり東京は危うさで満ちている。東名高架下の美術館無料駐車場に入れて砧公園を抜ける、無料駐車場だが整理員が居て案内図をくれる、丁寧だ、人手が潤沢で都会らしい。砧公園の桜はやっと五分くらい、こぶしが満開でこちらのほうが迫力がある。都心の桜はまだまだの感じだ、桜はまだでも花見シートは都会らしくしっかり敷かれている。人の都合で花は咲いてくれない、肩すかしされる、しかしこんなのが春らしい。

平泉展の方は高齢者展の様で、よくある絵画展とは客の感じが違う、世界遺産落選のリベンジのキャンペーンという主催者側の意図も見えてしまうが、とにかくみる。一木から削りだされたノミ目の残る仏像の見事さもあるが、金と銀で交互に書かれた経典がKyoumon 圧倒的だ、文字の美しさ、おびただしさ、これは見たことがない。間違いの一つもなく楷書のお手本のようにひたすら書き続けられている、五重の塔を経文の文字で描いた図も出てくる、耳なし芳一のようだ、経文の文字そのものが秘力を秘めているという思いが伝わってくる。仏教が学ぶことの中心にあった時代を思う、しかし宗教が富を浪費し知恵をむなしくしているようにも思えてくる。異なった次元の文物を美術品として眺めているようで、見ている今の自分自身とおびただしい文字がつながっていない、切れているがつなげたいとも思っていない感触を感じる。宗教に対する疑念、ぬぐいがたい胡散臭い思い、が自分自身にあるためかもしれない。複雑だ。この100年ほど前に書かれた源氏物語とはまるで違う。源氏は書かれている心の動きが今様でリアルだ、直ぐ近くにある。
お江戸の桜見物はあきらめて帰りに下野国分寺の淡墨桜に立ち寄る。根尾谷の名木のUsuzumi 実生から命をつないで育てられた木だ。満開だ、細やかで品がある花で満ち満ちている、いくつもの春に訪れた木だが今回が最もすばらしい。ため息の出るような花だ。素直にめぐり合えて良かったと思う。重々しい歴史や命のつながりを説かれるよりもそれを引き受けて危うくもあるそのままの今がやはり美しくも面白い。

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