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2009年8月31日 (月)

台風が来て

11gou 久し振りに台風が関東にやってきた。気象の予測は数値計算結果に重きを置くようになっているが台風が数値予報の中に入ってくると全体の信頼度がだいぶ落ちてくる。影響が大きいのに動きが計算に乗りにくいようだ。今回の11号も8月28日21時JSTベースの計算では9月1日の夕刻に中部地方に上陸北上するはずだった、こんなのが週間予報の中に現れると1週間分全部が疑わしくなる。台風シーズンの週単位の予測は難しい。こんな時のテレビの週間予報の説明は苦しそうだ。数値計算に寄りかからずに頭で考えさせるようにしてくれるのがいいといえばいいのかもしれないが。

こうやってふと秋が来る。

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2009年8月27日 (木)

薪能

日光輪王寺の薪能を観た,薪能は初めてだった。随分以前、風姿花伝書を輪読したことがあって、能には少しは興味があったのだが、一度だけ飯田橋の能楽堂に見に行って、翁ものに懲りてその後行かずじまいになっていた。30分近くも殆ど動き の無い翁の聞き取りにくい謡に耐えられなくなったことを思い出す、そもそもそのような伝えかたを世阿弥は狙っていたとも花伝書で読め、なおさら本質的な拒絶的な舞台を感じていた。薪能というのは夜の屋外で 能が作られた時代の雰囲気がいくらかでも伝わってくるのではないか、出し物が翁ものでなければそれほど拒絶的でもなかろう、一度は見てみたいと思っていたがなかなかタイミングがなかった。先週末の朝、ぼんやり眺めていたテレビのニュースで輪王寺の薪Takigi1能が報じられているのを見て この機会を外すまいとその夕刻の上演に日光まで駆けつけた。当日券で最後列の席となったが、双眼鏡も使いながらとにかく雰囲気は感じ取ることが出来る。薪は舞台近くの2箇所だけで明かりとしては全く不足しており、舞台は主に強力なライトでライトアップされている、薪は飾りのように見える、こんなものなんだと思ってしまう。
出し物は狂言を挟んで「楊貴妃」と「葵上」だった。配られた台詞を読みながら舞台を追うのだが、台詞を見なくてもついていける場面もある。最後列で離れていることもありのめりこむ感じにはならない、しかし時々はっとする言葉に出会う。「楊貴妃」の出し物は 玄宗皇帝の命により亡くなった楊貴妃の死後の霊魂を求めて方士が蓬莱宮にやってくる話だ(ちなみにこれは熱田神社のことらしい)。そこで首尾よく出会ったが、方士は持ち帰る証拠を求め楊貴妃はかんざしを与えようとする、しかし、これはほかでもある品だ、(あなただけの)言葉を下さい、と言葉を求める、はっとする、きらびやかなモノは確かにそれだけのものだ、しかしことばは人そのものだ、600年を越えた時の隔たりが消えて今にその言葉が生きる。
「葵上」の方は世阿弥が源氏物語から話をとっていて、亡くなろうとする葵の上に取り付いた六条御息所の生霊を追い払う話だが、源氏物語のこのくだりを読んだときの印象のほうが強くてなんとなく雑に観てしまう。源氏物語は1000年の時を経てもリアルでこの生霊のくだりもこんなことがあるかもしれないとさえ思ってしまうほどだ、源氏は見舞いの床で 病に苦しむ正妻葵の上の顔かたちがみるみる恋人御息所に変わってその声で語ってくるのを見て周りの人に悟られないかとひやひやする、葵の上が亡くなった後御息所に会ってそのときの話を聞いたりもしている。いちいち表現が細やかだ。能の葵上はむしろ生霊のさまよう世界全体を現出することに重きが感じられそれはそれで悪くない。しかし形で押してきていて形が少々鼻につく。
薪能は雰囲気を味わえればいいような気もする、野外といってもあまり特別な感じがしない。能はいまだにもう一つピッとこないが時を越えた気持ちが届くときが一瞬でもあれば、十分ではないかと思っている。

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2009年8月23日 (日)

幸せを与える度合い

この夏はどうしたはずみか岩木山と美ケ原の2つの百名山を登った、登ったというほどの登山ではない、とにかく2つクリアしたというべきなのだろう、別に百名山登山を追いかけているわけではないがやっと1/3ほど登ったくらいだ。今回の2つはどちらも印象深かったが美ケ原は思った以上だった。深田久弥のころは勿論ふもとから急な登りをつめた後に広がる天上の楽園だったのだろうがいまは高原状の台地まで立派な道がつき観光の気楽なスタイルが行きかうリゾート地の感がある。そうはいっても駐車場から最高ポイントである王ヶ頭(おうがとう、おおきにありがとう と言い慣れてしまうが)まで4-50分高原歩きをすKujyakuる、マツムシソウをはじめとする高山植物がずっと続いて丁度開いた色とりどりの花が素晴らしい。リゾート施設の作られる前の質素な山小屋だけの時代ではどれほど印象深かったろうか。花が豊かなら蝶も色々飛び回る、やっと写真に取れただけでもクジャクチョウなど6種その他アサギマダラやキベリタテハ他数種みかけた、僅か2時間ばかりの間だ。
植物の写真は後で図鑑で見ても解らないのが幾つか出てくる、とにかく種類が多い。美ケ原の名はどこか押し付けがましい気恥ずかしさがあって観光のための名前のような気がしていたが訪れてみると真に名前のとおり美しい、名前で馬鹿にしてはいけない。
それにしても簡単に到達できる場所になったが施設が色々作られ素晴らしさが半減してトータル人々に幸せを与える度合いが増えたのだろうか減ったのだろうか。人の手が入りアクセスができるようになってあるところまではトータルとして与える幸せは増えていくがそれ以上に開発が進むと減っていくように思える。美ケ原は残念ながら少々減ったところに現在の状況があるように見える。どこで抑えるべきか、今までそんな議論をやって物事が決められて来たのだろうか、少なくとも失われる価値が過小に評価されてきたように思える。しかし考えるべき時期に来ている。考える尺度を変える時にきている。視点を対立的なポジションからより調和のとれた見方に変えることも求められているように思う。どうやって誰もが認識を共有できるように幸せを与える度合いを数値化するか、それがキーのような気がしている、難しいが。

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2009年8月20日 (木)

若鳥の呑気さが

一月ほど前から庭の物干しにしょっちゅう変なひよどりが来るようになった、どうしたんだろうと写真にとってネットで少し調べるとひよどりの若鳥だった。庭の桜に巣がかかっている年があって今年がそれか、巣立ったばかりのひHiyowakaq よどりか、とかわいらしくなる。いつもはうるさいひよどりでも若鳥はちょっと違う。世慣れした風が無くて初々しい、警戒心も少ない。すずめも時々妙に馴れ馴れしいのがいてこの間などは少し開いていた窓の隙間から部屋に入ってくる始末で、変だなと思っていたが、どうもこれも若鳥のようだ、家の近くのどこかに巣があったのだろう。世間の荒波にもまれていくと警戒心が先にたち周りにガードを立てるようになってくるがそうなる前は世界と共にあるようで呑気さがあって好ましいしうらやましくもある。飛ぶものは何でもそんなところがある。
昨日は韓国が初めて自前のロケットで衛星を打ち上げるはずの日だった、Nano ぎりぎりで加圧用圧力タンクに異常が検出されて延期されたが、釜山の西の外羅老(ウエナロ)島から南に向かって打ち上げることになっていた。1段目はロシアのアンガラロケットで2段目が独自の固体ロケットになっている、1段が液体で2段が固体というのも珍しい。1段のエンジンはアンガラのRD191エンジンの推力を絞ったRD151が使われているが全体をロシアのクルニチェフが責任を持っているといわれる、要するにロシアの影が濃い。ロシア技術の導入は2005年頃決定されてとにかく早く自力で衛星を上げたいということらしい、日本のH1もアメリカの影が濃いものだった、とにかく立ち上げることが肝心だ。RD151エンジンそのものはまだ打ち上げられたことが無いが原型のRD170はロシアのエネルギアロケットに使われて、もっとも高性能なケロシンエンジンといわれており米国アトラスVのエンジンもこの派生型のRD180が使われている。ロケットの1段は燃費性能より高推力が重要で日本のH2の液酸液水エンジンよりこちらの方が1段としては優れているようにも思える。このロケットを土台に韓国は宇宙に自力で乗り出そうとしている。前途にまだまだ困難が続くだろうがともかく走り始めているプログラムは初々しい。
何はともあれ安全に上がってほしいが、最近の航空宇宙業界ではなかなか計画通りに飛べない話で満ちている。ボーイング787の開発はスケジュール延期をを繰り返し、本来なら北京オリンピック前に全日空が運行を始めているはずが未だ初飛行もできていない、エアバスA380は今ではデリバリが進んでいるがこれも開発では製造が混乱してデリバリは当初の2年遅れとなりおまけに経営陣のインサイダー取引疑惑までとびだしてCEOが退陣するなど散々な有様だった、更にEADS/エアバスの大型軍用輸送機A400Mの開発も政治的圧力に端を発する技術的問題で暗礁に乗り上げこれも今頃は実運用されているはずが初飛行もできていない、4年くらい遅れている、日本の自衛隊用輸送機C-Xの開発も同じく初飛行がすでに2年は遅れている、原因は勿論いずれも技術的な問題だがこうも世界中で開発がうまくいかないと、根本的にやりかたに問題があるのではないかと思ってしまう。ISO9001のような設計品質マネジメントシステム認証がこの20年ほどの間に世界に広まったが、こんな事態を予感させて広がっていたのかもしれない、しかし追いつかなかったようだ、形骸化しているのかもしれない。

仕掛けがどんどん複雑化する時代では、宇宙や航空に限らず、若鳥のような呑気さではやっていけなくなってきているように感じられる、このまま何処へ向かって走っているのだろうか、どこかで新たな次元がひらけるのだろうか、考えてもおよばないように思えてくる、難しい。

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2009年8月17日 (月)

21世紀も捨てたものではない

お盆休みの終りに軽井沢の会社の保養所がとれたので出かけた、会社直営を止めて委託にしたと聞いていたが変わりように驚いた。最も際立っているのは食事だ、以前の和洋食一度出し片付けはセルフという、いわば給食の雰囲気の食事からフレンチのフルコースに変わっていた、洒落たレストラン風だ もてなされていると感じる。今のところ料金は少しは上がったもののまだ圧倒的に安く得した気分にもなるが、何か時代の変わり行く様を見た思いもした。客に提供されるサービスの質を向上させ求めるものにマッチしないと結局退場する羽目になる、そんな空気が保養所まで及んできたようだ。

10日程前に白神から東北を旅したがそのときも宿の質の変化を思った。初日に泊まった十二湖の宿は、アオーネ白神十二湖というログハウスの宿だった、予定していた日は満室で前の日に1つだけ空いていてこれが取れたことで旅程を組みなおした、これはよさそうだという予感があったのLogh だが、アタリだった、宿泊グループそれぞれがログハウス一戸を借りる形で、2人で泊まるには有り余る広さがある、設備も新しい、クルマも自分のロッジに横付けできる、隣のロッジは十メートル以上離れており独立性が高くて自然の中でゆったりした時間が過ごせる、レストランでの食事がついていてこれも悪くない、料金も特に高いわけでもない、ナチュラルで良質のものを割安でとの時代に合っている。次の日に泊まった白神ラインの東側の西目屋の宿は、トクーという安値の宿泊紹介システムで取ったのだが、前泊との落差は料金の比では到底無い、ハコモノ思想で団体向けを想定して作られた宿が料金を下げ必死に客集めしながら成り立たせている風情だ、隣接する広大な白神ビジターセンターともどこか過ぎた時代としてずれ方がつながっている。その翌日に泊まったかみのやま温泉の宿はこれよりは大分ましだがやはり大きな施設の宿を埋めてビジネスを成り立たせるのに必死な様子がそこここで伝わる。いずれにしろ一時代前の大量宿泊を相手に作られた宿には苦しさがにじむ、作り直さなければもはや続けられなくなっているのかもしれない、時代はナチュラルで割安な良質な宿を求めている。少し考えていくとこれは宿に限った話ではないと感じる。
21世紀という言葉は進んだ未来が待っている、との響きを持っていた、実際に21世紀になってみると、9.11で始まる重苦しい時代にこんなことだったのかと思っていたが、近頃やっとその響きが少しずつ感じられて来た様に思う、よりナチュラルな、自然との調和があり、グリーン、個人の気持ちの伝播速度への理解、押し付けの拒絶、これを実現する技術、しくみ、そんな言葉で表されるもののような気がしている。押し付けのように行政が自然をコンクリートで固めハコモノを作って地元に仕事を作ることからの離脱、こんな生き方はもう止めよう、別のいき方があるはずだ、との模索があちこちで立ち上がっているようにも感じられる。そう思うと、最先端だが冷戦時代の遺物といわれるF22戦闘機の生産打ち切りを米議会が僅差で議決したのにも同じような感覚が流れているのを感じる、F22生産継続推進派は打ち切れば多くの職が失われると主張した、確かに多くの人が仕事を失う、しかし仕事を得続けるためにおかしなことを続けるわけには行かない、そうなんだ、気がつき始めているんだ。
このまま行けば21世紀も捨てたものではない、気が楽になる、エネルギーだってクリーンな常温核融合が実現して解決してくれるかもしれない、世界は一人一人の心の中から変わっていく、こんな時の動きは眺めているだけで楽しい、次の十年が待ち遠しくもある。

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2009年8月11日 (火)

白神山地にて

一度は行くべきか、と思うところが幾つかある、白神山地というのも気になっていた一つだ。選挙のおかげか8月は高速代が木曜から1000円となる週が設定されて これを使わない手は無いと出かけることにした。白神といっても漠然としている、インターネットや図書館で事前に調べても今ひとつ白神らしい白神はどこで感じられるのか解らない,時間切れでそのまま出かけるはめになった。解りにくいのは考えてみれば当然のようにも思える、人手に触れられていないブナの森の広がりが世界遺産の理由だしそこに魅力の中心がある、今から人手で痛めるわけにはいかない、だから白神の核心部を 訪れる多くの人に触れさせるわけにいかない、しかし地元は何とか多くの人に来てもらいたいしビジネスにもつなげたい、不確定性原理のような堂々巡りの難題だ。

訪れてみると、懸念していたように、世界遺産指定地域の緩衝部にあって最大の売りといわれる 暗門の滝は深い感動を与えてくれるほどでもなかった、いい滝ではあるが 滝に至る道もどこか吹き割の滝遊歩道を思わせるようで‘手付かずの自然’とは感じ難いし、滝としては尾瀬の三条の滝の方が遥かに迫力がある、また、近くの樹齢400年のブナのマザーツリーも観光の手垢にまみれているように見えてしまう、どこかずれている。

しかし白神ラインの途中にある核心部でShirkmも緩衝部でもない奥赤石遺伝資源保存林に踏み入れてみると手つかずのブナの原生林そのものを感じることができる、次々に色んなフェーズのブナが姿を見せる、キノコ、カラ類のような鳥の声、風、光、素直に森が感じられる。来たかいがあると思わせるに十分なものがある。十二湖の鶏頭場の池で思いがけずしっかりした8月のアカショウビンの声をきくのもまた来たかいがあったと感じさせる、深さがあって緩やかな時間を感じ取ることが出来る森だ、確かにいい森だ。

次の日は予定外の岩木Iwaki 山に登ることにした。リフトで9合目まで上がってつめるだけだから散歩のようなもの、とタカをくくっていたが、さすがに100名山、ひたすら急勾配を手も使いながら登る、ついでに登るというのにはちょっときつい。この日は天候が崩れる予定の日で山頂からの眺望は望めないが時折雲の切れ間から北海道も見えるような気がする。岩木山は単純でいい、岩がありお花畑があり山頂があり眺望がある、なんだか素直だ。白神のもやもやしたところがちょっとばかり吹っ切れた感じがする。
強いられた雰囲気のある感動ではなく素直な気持ちで自然に向かう、結構難しいところがある、もしかしたら地元にとっても重いものを背負わされているのかもしれない、西目屋にある広大な環境省のビジターセンターの建物を思い起こしながらながらそんな風にも感じている。白神は難しい。

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2009年8月 6日 (木)

今年の夏は

どうも今年の夏はなんだか変だ、日本海に高気圧が張り付Kaihy いて動かない、南からの暖湿な大気がこの高気圧にぶつかって雨を降りやすくしているように見える。少し調べると、日本海の海表面温度が例年に較べて随分低い。これは変だ。北極振動が気になる、北極振動指数(AOindex)をみると例年になく6月から大きく下がっている、北極上空の気圧が上がって冷たい空気が流れ出しやすくなっていることを示している。この40年には無かったほどの指数の大きな落ち込みAoobsだ。不順な夏となるのも当然だ。百年に一度の経済の混乱とどこか繋がっているようで面白くもある。気候全体も人間の活動も誰かの手のひらで操られているように動く。所詮は地球の薄い大気層の下で起こるコップの中の嵐だ、人が増えすぎて影響が大気層全体に及べば人が滅びるように気候は動いていき次の平衡に向かう、自然の当然の姿だ、経済もバーチャルな仕掛けがリアルな世界とつじつまが合わなくなると崩壊して次の平衡へ向かわざるを得ない、自然な姿だ。

どこまで人は自然に抗って頑張りきれるだろうか。

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