« 幸せを与える度合い | トップページ | 台風が来て »

2009年8月27日 (木)

薪能

日光輪王寺の薪能を観た,薪能は初めてだった。随分以前、風姿花伝書を輪読したことがあって、能には少しは興味があったのだが、一度だけ飯田橋の能楽堂に見に行って、翁ものに懲りてその後行かずじまいになっていた。30分近くも殆ど動き の無い翁の聞き取りにくい謡に耐えられなくなったことを思い出す、そもそもそのような伝えかたを世阿弥は狙っていたとも花伝書で読め、なおさら本質的な拒絶的な舞台を感じていた。薪能というのは夜の屋外で 能が作られた時代の雰囲気がいくらかでも伝わってくるのではないか、出し物が翁ものでなければそれほど拒絶的でもなかろう、一度は見てみたいと思っていたがなかなかタイミングがなかった。先週末の朝、ぼんやり眺めていたテレビのニュースで輪王寺の薪Takigi1能が報じられているのを見て この機会を外すまいとその夕刻の上演に日光まで駆けつけた。当日券で最後列の席となったが、双眼鏡も使いながらとにかく雰囲気は感じ取ることが出来る。薪は舞台近くの2箇所だけで明かりとしては全く不足しており、舞台は主に強力なライトでライトアップされている、薪は飾りのように見える、こんなものなんだと思ってしまう。
出し物は狂言を挟んで「楊貴妃」と「葵上」だった。配られた台詞を読みながら舞台を追うのだが、台詞を見なくてもついていける場面もある。最後列で離れていることもありのめりこむ感じにはならない、しかし時々はっとする言葉に出会う。「楊貴妃」の出し物は 玄宗皇帝の命により亡くなった楊貴妃の死後の霊魂を求めて方士が蓬莱宮にやってくる話だ(ちなみにこれは熱田神社のことらしい)。そこで首尾よく出会ったが、方士は持ち帰る証拠を求め楊貴妃はかんざしを与えようとする、しかし、これはほかでもある品だ、(あなただけの)言葉を下さい、と言葉を求める、はっとする、きらびやかなモノは確かにそれだけのものだ、しかしことばは人そのものだ、600年を越えた時の隔たりが消えて今にその言葉が生きる。
「葵上」の方は世阿弥が源氏物語から話をとっていて、亡くなろうとする葵の上に取り付いた六条御息所の生霊を追い払う話だが、源氏物語のこのくだりを読んだときの印象のほうが強くてなんとなく雑に観てしまう。源氏物語は1000年の時を経てもリアルでこの生霊のくだりもこんなことがあるかもしれないとさえ思ってしまうほどだ、源氏は見舞いの床で 病に苦しむ正妻葵の上の顔かたちがみるみる恋人御息所に変わってその声で語ってくるのを見て周りの人に悟られないかとひやひやする、葵の上が亡くなった後御息所に会ってそのときの話を聞いたりもしている。いちいち表現が細やかだ。能の葵上はむしろ生霊のさまよう世界全体を現出することに重きが感じられそれはそれで悪くない。しかし形で押してきていて形が少々鼻につく。
薪能は雰囲気を味わえればいいような気もする、野外といってもあまり特別な感じがしない。能はいまだにもう一つピッとこないが時を越えた気持ちが届くときが一瞬でもあれば、十分ではないかと思っている。

|

« 幸せを与える度合い | トップページ | 台風が来て »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 幸せを与える度合い | トップページ | 台風が来て »