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2009年9月 6日 (日)

渡る前のサシバはどうしているのだろう

もう殆ど秋のようだ。秋といえば栃木のタカの渡りが気になって、一体渡る前のサシバはどうしているのだろうと1週間ほど前サシバの密度が高いといわれる市貝のあたりに出かけてみた。梅林のある観音山あたりか、とおよその見当を付けて見に行く。 里山と丘陵の境目の緩やかに田が谷間に入り込む谷津田(やつだ)とか谷戸(やと)とか呼ばれる地形でいかにもサシバがでそうな雰囲気のところだ。しかしこの日は、かなりの暑さで上空もあったまっていて上昇気流には適当でない、上昇気流を利用するタカは出そうにない気象だ。途中1羽タカらしい鳥が遠くの茂みにおりるのをクルマから見たくらいだ。梅林の上の駐車場付近で暫く待ってみるが一向にタカの気配が無い。やはり天気の調子が良くないようだ。市貝では10数年前まではカラスよりサシバが多いとまで言われていたらしい、もう渡り始めて数が減っているのかもしれない。

Ichikai1 手持ちぶたさなのでそばにある永徳寺というお寺の境内に上がってみる。観音堂の伽藍は江戸時代のもので、本尊の仏像は鎌倉時代らしいが60年に一度しか御開帳が無いとの事でとても見ることは出来ない。伽藍の彫り物には象もあったりしてなかなか面白い。もとは益子一族の村上氏の山城だったらしく遺構も残っている。説明板では更にその昔 1187年に平宗清が守って源頼朝軍に落とされた城だというから歴史は古い、しかし宗清は1159年の平治の乱で頼朝を捕縛後助命嘆願した当事者であったはずがその後ここに居て討たれたとはちょっとおかしいような気もする、面白く脚色された話が伝わっているに過ぎないのかもしれない。ともかく古くからここらの地形は利用されていたのだろう、もしかしたら縄文まで遡るやもしれない。栃木はそこら中縄文遺跡だ、と以前宇都宮の河岸段丘で縄文遺跡発掘中の方に教わったことがある。道路建設が計画通りに行ってない所は大体が遺跡に当たっているようだ。市貝のあたりは低山と川が里山らしい風景をそこここに生み出している、昔から人が住むのに適した場所のように感じる。自然と一体化した暮らしを送っていた時代には大変住み良いところだったに違いない、田畑と山に適当に手が入って小さな生物が数多く生息できそれらの上位に君臨するタカにとっても住みやすい環境だったのだろう、しかし今は過疎化の波が押し寄せ廃棄物の捨て場に狙われやすいようであちこちにゴミの不法投棄禁止の看板が目に付く、東隣のツインリンクもてぎのあたりも一時は廃棄物処理場にしてはどうかという話があったらしい、少々自然破壊ではあるがツインリンクのほうが何十倍もましだ、里山は気を抜くと簡単に破壊される、何の役にも立たないと見られてしまうようだ。多種類の生態系が維持できる環境が人にとりわけ大事な時代に入っているというのに、タカのことを少しだけ調べたところでひたひたと迫りくる嫌な流れを感じる。人は自らが滅び行く道を選びたがるところが何故かあるようだ。

観音山から北に上がって同じ市貝の琴平山に向かう、途中ずっと里山の雰囲気だ、どこにでもサシバがいそうに思える、でもこの日は全くでない。追って出てくるものでもない、しかしタカがどうであれ人がどうであれ秋は確かにそこまで来ている。

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