1Q84
1Q84という村上春樹の本を会社の帰りに図書館に寄って毎日30分ずつ読 んでいる、こんな読み方もなかなかいい。反芻しながらイメージを拡大していける、はまり込み方が広くなる。ともかく読む。読んで行くに従い、著者自身が話の中に登場しているような気になる。考えているだけのことでも何でも見通す リーダー というのは著者村上春樹でしかありえないのではないか、更には青豆の物語は天吾の執筆中としている小説そのものではないのか、という想いに至る。小説の半分の主人公が残り半分の書き手として姿を現しさらに本当の書き手も存在を表す という思いつきが気に入って、暫く読み進んでいる。まだ最後に到達していない、本当にそういうことなら面白いがどうもそうでもないらしい、と3/4まで読んだところで思い始めた。自分で書くならそういう風にして紙から飛び出したねじれた立体を描くだろう。小説では書き手がオールマイティだ、ミクロコスモスすべてを神の目で見、神の手で操れる。小説の中に解き放たれた人格は書き手の頭の中から彫りだされ小説の中を走り回っている。書けることに際限が無い。
しかし読んでいると書いてみたくなる、とても言葉も足りないようだし彫りだしてもかけらしか出てこないような気がしているにもかかわらず、だ。
1Q84の方は3/4のここまでくると大団円近しとの香りが漂ってだんだん普通の小説になってきたような気がしてくる。
もうすぐ終りがきてしまうのも少々寂しいものがある、次を探し始めねばならない。寒さの冬は読み物に限る。
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