伏見にて
今年の年末は福岡までクルマで移動することにして宇都宮から走り始めた、3年前の同じ時期に走った時は関が原が雪で大渋滞だったが今回はどうということも無く関西までたどり着いた。京都南に近い伏見の辺りを中継点にしてまた次の日走るのだが、早く着いたこともありぶらぶらと幕末の事件の舞台となった寺田屋辺りをみたり江戸時代からの酒蔵のたたずまいを見たりしていた、寺田屋は来年の大河ドラマの坂本竜馬でも登場するためかやたら見物人が多い。坂本竜馬暗殺の犯人はこの人ですという説明と共に渡辺篤の写真や暗殺告白の遺書の写真まで展示してある、来年はもっとはやるに違いない。しかし暗殺は近江屋で寺田屋ではない、こちらは薩摩藩の寺田屋事件の現場だ。改めてみると、狭い。こんなところで薩摩藩士同士の血なまぐさい切り合いが起こったというのが信じられないくらいだ。ともかくも京都で伏見は戦国時代以来の武家の実質的中心地だった、桃山時代の中心地であり、鳥羽伏見の戦いもここが主戦場だというのが象徴的だ、酒のにおいと共に少々血のにおいがする、明らかに公家の世界とは違う雰囲気が展開している。水運の中心で、銀座のある経済の中心でもあった、京都の都は公家が占めていて新しい力はその場所を南の伏見に場所を求めるほか無かったようだ、今でも京都地域の新たな宅地は伏見以 南が大勢らしい。明治天皇の御陵ですら桃山につくられている。寺田屋の前を流れて淀川へ通じる川堀を見ていると小さな流れが時代を変えてきた様が想い浮かぶ。
過ぎ去った人々そのものは勿論今は無に帰している、しかし場所というか土地には、歴史として文字に書き下されなくともどうしようもなく消えないものを感じる。更には、本当は過ぎ去った時代を取り巻く全てが無に帰して宇宙のかなたへ飛び去っているはずだが、現世を生きている世代は 種としての経験の蓄積として抜け殻を役立たせようとそのイルージョンをその場所の空中に漂わせている。観光名所はイルージョンの塊のようだ。
見えている或いは書かれている歴史は本当は川に浮かぶ木の葉のように軽いものかもしれない。
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