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2010年3月 7日 (日)

気になっていた長谷川等伯が

随分以前から長谷川等伯が気になっていた、あの現代的な松林図屏風が戦国末期に突然出現したような印象を受けていて、どういうことなのだろうと思っていた。今年に入ってまとまった特別展が上野で開かれているというのでとにかく出かけた、没後400年の記念という。
能登の仏画から始まる等伯の足跡が作品で追える、京に上った辺りからの転変が面白い、ふと太い線になったかと思えば狩野派にも影響を受け繊細な風も出てくる、山水画もそれらしくしだいにプロフェッショナルとしての厚みが増してくる、そして秀吉の依頼で描いた楓図と松に秋草図屏風となる、これは本当に圧Hsg 倒的だ。それまでの絵が 流れてきたものの上に形式化した技を見せる雰囲気が濃いのに対し、これは全く違う。盛りのモミジでなく僅かに色づき始めた青いもみじに萩や小菊やあらん限りの秋の草を極めて写実的にかぶせている、きれいに描くのでなく、一部が茶色く変色し始めた草の葉、今の植物図鑑と変わりない正確に葉脈を描いたリアルな雑草といえる草の葉が 金箔の上に絢爛と描かれている、驚いてしまう。こんな絵だとはしらなかった。それまでの 画家として地位を築き稼ぐために顧客の求めに応じて書いてきた絵とは違う。描きたかった絵を描いていると感じるしそれを秀吉が引き出しえたのではないかとも思う。この絵の後はまた稼ぐための形式化された絵が続いていくが、最後にあの松林図屏風に至る、松は松らしく林は本当の林のたたずまいがある、自由で恐ろしくリアルだ、稼ぐための絵から描きたい絵を描いているように思える。
画家は難しい職業だ、生きていかねばならない、世俗的な成功のためには顧客の評判を得 顧客の求めに応じて描き続けねばならない、その先に本当に描きたいものを存分に描いて後世に残せるか、が求められているのだろう、考えてみると画家ばかりでない、なんでも同じかもしれない。
長年引っかかっていた長谷川等伯がなんだか解けたようだ。

相変わらず人出の多い上野を後に雨の残る東北道を少しばかり解き放たれたような気分で北に戻っていった、春だ。

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コメント

楓図は本当にすばらしいですね。
私はこの絵を京都の智積院でも見たことがあります。
今回東京で再び見たのですが、
私が感じたことは、この絵が息子久蔵の描いた桜図に呼応して描かれたのではないかと言うことです。

智積院で見た久蔵の桜図は本当に瑞々しく清らかに描かれています。
その絵は少女のように可憐で、20代の男の人が描いたとは思えないほどの透明感があります。
久蔵はおそらくとても純粋な人だったのでしょう。

それに対して楓図は、しっかりとした老木に秋草たちが絡まり、
その姿は重厚でありながら慈愛に満ちた父親のようにやさしく枝を伸ばしています。
そこにある穏やかなまなざしはそのまま息子久蔵に注がれているような気もします。
桜図と楓図は切っても切れない関係にあると思うのは私だけでしょうか・

幼い久蔵の手をひいて七尾から京に上り、自分の人生を切り開いてきた等伯が、苦難の末にようやくここまで来ることができ
秀吉からの大きな仕事を任されて気持ちも充実していたことでしょう。

等伯をしのぐとまで噂されていた息子久蔵が突然急死したのはこの桜図が完成してまもなくのことだと言われています。
その時楓図が完成していたかは定かではありませんが、完成していなかったとすれば等伯はどんな思いでこの絵を最後まで描いたのでしょう。

当時のことは詳しく分かりませんが
松林図屏風もまた久蔵の死後まもなくの作ではないかと言われています。
ちょっと感傷的過ぎるかもしれませんが、
私はこの松林図を見るたびに、大切な息子を失った等伯の心の行方を見るようで、切ない気持ちになるのです。

投稿: わびすけ | 2010年3月 9日 (火) 01時41分

久蔵の桜図は見たことがありません、今度京都を訪れた時には機会を見つけてみてみたいと思います。

投稿: sora | 2010年3月 9日 (火) 21時07分

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