ドラッカーが
ドラッカーが読まれているという。ドラッカーというと経営のハウツー本のよう な印象があったが はやりものにははまってみるべし、との教えに従っていくつか読み始めようと、処女作 「経済人」の終わり から読み始めた、気になっているファシズムを論じている。30歳の作だ、筆が走りすぎているところがちょっと荒削りではあるが若々しくて勢いがある。ヒトラーの勢い盛んな1939年に出版され全体主義の成り立ちを論じているのだが、驚くほどに本日現在の状況に近い。スターリンによる社会主義への失望、大恐慌からの資本主義への失望がいずれでもない体制を求める原動力となった。ファシズムには肯定が無い、あらゆるものを否定する、旧来の信条をことごとく否定し、かといってこれに変わる信条を持たないままに権力をにぎった、そこに本質がある、と看破している。今の日本の状況と似ている、自民党もダメ、民主党もダメ、ダメだしの連続が日々流れている。何か危ない
オウム事件から15年だがどこかこの事件もファシズムの成り立ちを想起させる。15年前は社会主義国家崩壊・冷戦終了・バブル崩壊後の失われた10年の最中、と信ずるべきものがガラガラと崩壊した時代でもあった、オウムもまた否定の上に成り立っていたのだろうか。米国の安全保障研究所長が獄中の正気に戻ったオウム幹部から聞き取りを行っているという、確かにオウム事件は幾重にも折り重なった時代の切片のようで研究に値するように見える、狂信的テロリズムとそれからの脱却の例示でもある、その集団に多くの優れた頭脳が参加しテロの実行すら担っていた、何かを物語っている社会的現象のように見える。航空機の事故調査は犯人処罰ではなく真の原因追求に重きを置き、システムの問題を改めていくことで航空機事故を急速に減らしてきた、同じことが社会的現象に対しても言えるのではなかろうか、犯人を死刑にして何がわかるのだろうか、何が変わるのだろうか、得るべき教訓を得る機会を失いつつあるのではなかろうか。社会的事件への対処には組織的な原因追求の機関が必要のように思えている。
否定の連続は終わりにしないと、か、そうなんだろう、やはりあるがままの今を全て受け入れてそこから考え始めないと、と思う。
ともかく4月だ、桜もやっと凍ったつぼみを開きそうだ、また忙しい春が目の前に広がる。
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