プロは厳しくなって
なにげなく借りてきた三島由紀夫の「夜会服」という小説を読んでいたら三島の作品には珍しくハッピーエンドになってどうしたのだろうと思ってしまった。余韻というものが無い。1966年から67年に雑誌マドモアゼルに連載とあるのでそこを感じて書かれたのかとも思うが、どうしようもなく古い娯楽本のような感じが漂っている、稼ぐために書いたのだろうか、そんなこともなりわいとしての小説家には必要になる。三島も当時 短い時間でも濃密な経験をすればこれを何倍にも薄めて色々小説が書ける、とどこかで語っていた、これは大分薄まった小説のようだ。まあしょうがない。
iPadがはやりそうだ。昔から感じていたアップルの“なじむ”感じがそのままのようだ。以前アップルがアイコンとマウスを打ち出した後のWindowsのパクリには唖然としたが今回はもうそんなわけには行くまい。しかしフラッシュを排除するなどアクの強さは健在で 昔で言うなんやら大鵬たまご焼きの世界とは隔絶しているようだ、パソコンを席巻し尽くす恐れがないところがまだいい。電子書籍が普通の本のように読めるため書店で本が売れなくなると書店の業界が警戒しているらしい。ともかく自費出版の本を電子書籍で出すのはひどく手軽になりそうだ、作製ソフトも色々出てくるだろう、小説を書くこともはやってきそうな予感がする。
Netによって個人が打って出る機会が随分と増えてきている、別に小説を書くといった大げさなことでなくてもオークションの売り買いといった、以前は出て行くのにどうやればいいのか分からなかったことが、どうということもなく出来るようになってきている、素人とプロの垣根が薄らいでいる。更には 調べ物は百科事典よりNetに聞くのが一番で、新しい情報があって調べるのも早いが、そのデータはwikipediaにしろ結局プロではない個人の趣味の努力が支えている、鳥や植物の色んな角度や場所での写真は全て個人が支えて図鑑の限られた図版から抜け出せている。プロで生きていくことは厳しくなってきているようにも感じる。
三島のように、プロらしい薄めた小説で稼ぐというような手は次第に難しくなるのかもしれない。この先どうなるのだろうか。プロは技を深め取り巻くセミプロも更なる深まりをみせ、純朴なアマチュアの世界と際立っていくのだろうか、セミプロの数がやたら多くなるのかもしれない、どうなるだろうか、解らない。
どうでもいいことのようだが、それにしても誰が動かしているともいえないどこへ向かっているかも分からない「時代」そのものが面白くもある。
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