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2011年8月 1日 (月)

被災地の今を見る

見なければならないと思っていた東日本大震災の津波の破壊の様を意を決して見に行った。見るだけしか出来ないことの後ろめたさがあった、しかし見ておかねばならないという気持ちはそれ以上だった。1日かければ宮城のどこかまでは行ける、それもしないのは何Wakabayasi か逃げているような気がしていた。東北道を仙台南から仙台南部道路へ曲がり2つ目のインターで降りて海のほうへ向かう。次第に瓦礫の集積が見えてくる、遠めに見ると建物は残っているが良く見ると1階はかなり破壊されていて家は放棄されている、T字路に突き当たったところで空き地に停めて写真を少し撮る、マニュアルピントが好きでマニュアルであわせたつもりがボケボケになる、何か正視できないものがある。報道カメラマンは鬼のように心を殺して撮っているのだろうか。幅広い松林が津波の勢いを弱めたようだ、しかし道に沿って見えていた荒地は戻って調Matusimaべると畑が続いていた地帯だった、地面そのものが痛められている。
海沿いに平行に走って塩釜、松嶋までくる。ここは何故か大した被害は目に付かない。いつもどおり五大堂には観光客が訪れ観光船が行きかう。松嶋の風景も昔見たのと変わりはないように見える。津波の力も色々だ。
国道45号で石巻に入る、街並みに浸水の後はあるが破壊の跡は目立たず町としての活動が復活しつつあるように感じる。ここも港にIsinomak向かって南下する。海の近くまで来るとかなり建物が破壊されている、仙台南は松林で勢いが弱められてひたひたと押し寄せる津波のイメージだったがここは一面の住宅が破壊され放棄され ている、建物の形はあるものの無残だ。
街なかを抜けて45号線を北へ向かう。道沿いのコンビニやたべもの屋も営業していて町は機能を取り戻しつつあるように思える、大きなパチンコ屋も開いているようだ。北上川を渡り暫くいくと通行止めとなり引き返す。戻って北上川にそって少し上流にのぼり高速道に乗る、頼りになる道はこれしかないようだ。終点の登米まで行き東へ曲がって南三陸町を訪れる。すごい、言葉もない。破壊力が格段にすごい。殆どの建物が根こそぎ壊されていMinamsnrk る。鉄骨だけ残った防災庁舎の屋上まで津波が襲っている、地面の高さからその高さ(13mといわれる)まで津波が覆いつくす場面をとても想像できない。5ヶ月近くたってもまだ一面に瓦礫が広がる。大物は片付いているが更地になるまではまだまだだ。しかし、はためく復興祭ののぼりから人の強い意志を感じる。45号線がここでは機能していて沢山の車が行きかっている、少しずつ町は機能をとりもどしていくのだろう。ただただ見るだけでまた戻る、言葉が出ない。
登米から高速を乗り継いで宇都宮に戻る、1日に800km以上走ったことになる。確かに見るべきだった、それ以上は整理できない。多分多くの人が見るべきなのだろう、感じるべきなのだろう。復興しようという力を感じ誇りにすべきなのだろう。長く記憶にとどめるべきなのだろう。
それにしてもなんという災害なのだろうか。

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