小説月山
月山・羽黒山・湯殿山からの旅から戻ってそのどろどろとした宗教的な雰囲気がなかなか抜けず、森敦の月山を読み返し始めた。舞台は湯殿山の西裾にある注連寺という寺だがここへは今回行っていない、小説では じさま が一人いるだけの破れ寺となっているが今は立派な寺になっているらしくHomePageが開設されている。次の機会に湯殿山を訪れる時は行ってみなくてはなるまい、いつになるか。小説月山は芥川賞を受賞した時に文芸春秋で読んだきりで、セロファン菊という言葉くらいしか蘇って来ない。戦後間もない昭和26年に作者がひと冬をこの寺で過ごした体験をもとに書かれている。月山は死の世界の象徴という語りは未だ心に響いてこないが庄内の方言のリズムと主人公の標準語のリズムが2つの世界の存在を際立たせている、作者が向かう世界には宗教の世界の整理されたロジックはそこにはなくどろどろとした生きる力があるだけだ、月山は牛のようにどっしりした置き物でしかない。実際に月山に向かうと羽黒山や湯殿山の渦巻くような宗教の世界をはるかに超えてただただそこにあるという重さが感じられた、思い返せばその雰囲気は小説にはよく出ているようにも思える。作者の意図とはずれているかもしれない、しかしどうしようもなく動かない月山がある。月山を登ったあと山裾に沿って湯殿山の入り口にまわってみたが途中は殆ど人家の無い山道で未だに不便なところだった、翌日羽黒山の宿から高速に乗るまでの集落を抜けていく普通の農村風景の道筋にもガソリン給油所も全く見当たらない場所でもあった。生きぬくことをいつもきちんと心に留めておかねば生きていけない、小説月山に漂うそんな雰囲気が今も感じられる、しかしちょっと重い。
また行けるだろうか、鳥海山に登りに来れば帰りに寄ることもあるだろうか、そんなことを暫くは考えていたが、次第に薄らいできた。解き放たれるように生きていく、それが実は性に合っているように思えている。
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