« 日食との相性が悪くなっている | トップページ | またまた旅の準備 »

2012年5月29日 (火)

我々はすべからく遺跡の上に生きている

この春、下野薬師寺や国分尼寺跡を巡っていたら6-7世紀あたりの北関東の状態が知りたくなって幾つか調べている。こんなところに立派な伽藍が奈良時代以前に建造され五重塔さえ建てられていたという、その背景はなんだったのだろうか、その時代の雰囲気はなんなのか。

宇都宮から下野国分寺あたり一帯には6世紀頃と思われる古墳が多数見出されておりここらに有力な豪族が居たのは明らかなようだ。北関東道の宇都宮南インター付近からは当時の豪族の居住跡と見られる遺構が大規模に発見されている、旧石器時代から平安に至る住居跡があり古くから人が住み続け、関東の有力な支配層を形作っていたのだろう。下野国分寺が東国を代表する国家戒壇としてこの地に設置されたのもそんな背景がうかがえる。

下野薬師寺跡から出土した大量の瓦は殆どが現在の宇都宮市戸祭の窯跡で焼かれたらしい。また、宇都宮市の南、上神主にある政庁跡からも多量の名前入り瓦が出土しているがこれも戸祭の窯跡で作られていたことも解ってきている。戸祭と呼ばれる地名は土祭りと昔は書いていたとの説があり、どうやらここらあたりは古くから焼き物にいい土が出ていたようだ、土に一種の力を感じていたのかもしれない。次第に当時の状況がリアルに浮かんでくる。

飛鳥・奈良時代の政庁跡(市町村役場くらいか)である上神主の茂原官衙(かんが)遺跡に行ってみようと2度ほど試みMobarakngたがいずれもたどり着けなかった。国指定遺跡だが表示や案内板に行き当たらない。地理が解ってきたこともあり3度目のトライでようやく遺跡跡にたどり着いた。現地に説明版はあるが途中に道案内となる看板はやはりない。古墳の上に神社が残るほかは遺跡は発掘後全て埋め戻されている。ここらは良く見れば河岸段丘の上にあり統治者の建物を建設するに適しているようだ。このあたりの河岸段丘は掘れば縄文が出るとの説明を以前縄文遺跡の現地説明会で聞いた、遺跡を掘り出して一々そのまま地上に展示していたら新しい建設は難しくなる、宇都宮環状道路の工事が手間取ったのPhoto_2 は大抵が遺跡だったとも聞いたこともある。北関東自動車道に接するようにあるこの上神主の茂原遺跡も道路建設のため急いで調査され埋め戻されたのだろう。北関東道は宇都宮から西は昔の東山道とほぼ同じ位置にあってあちこちで遺跡を掘る羽目になったようだ。昔から人 が住みやすいところは変わらない。

我々はすべからく遺跡の上に生きている、目に見えるものであれ見えないものであれ。だからどうというのだろうか、遺跡を掘り返すのは結局は単に知りたいだけ、文字通り何の上にのっかってどこへ向かっているのか知りたいだけなのだろう。過ぎてしまえば薄い地層の一部となってしまう今にきちんと向き合いたいだけなのだろう。こんな風に歴史を追い始める熱っぽい時間が時々雲のようにやってきてそのうち去っていく、それも面白い。

|

« 日食との相性が悪くなっている | トップページ | またまた旅の準備 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 我々はすべからく遺跡の上に生きている:

« 日食との相性が悪くなっている | トップページ | またまた旅の準備 »