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2012年8月16日 (木)

八島ヶ原と諏訪の神社に縄文の荒々しさを感じて

暑さを逃れるように毎年夏は軽井沢で過ごす日程を入れている。軽井沢エリアで遊びに行くところも次第なくなってきて今年は霧峰から諏訪に出っ張ってみた。今年の夏も随分と暑い。エルニーニョの冷夏は到来できなかった、エルニーニョになるのが少し遅かったようだ、こんな時は涼しいところへ逃げるしかない。
まずは花がいいらしい八島ヶ原湿原というところに行ってみることにした、霧ヶ峰にも何度か行ったが八島ヶ原湿原は夏場には行ったことがない。7年位前に雪のあるシーズンにスキーツアーで訪れたことはあるにはあるのだが勿論花はなく広い雪原があるばかりだった。
ビーナスラインを上がって霧ヶ峰インターチェンジと呼ばれる十字路を和田峠方面に曲がると程なく到着する。別に立体交差があるわけでもなくインターチェンジとは奇妙だ、ビーナスラインという道の昭和を感じさせる。
駐車場はそれなりの大きさがあるのだが満車になることがしばしばあるとみえてたどり着く前の道には混雑時の路肩駐車への注意書きが次々に目に入る。この日はまだ早いのか10時頃でも駐車場の空きは十分だった。
ビジターセンターで様子を聞いてとにかく1周と右回りに歩き始める。中心に向かって左手に動くのに右回りと呼ぶのは考えてみるとなんだか変だ、英語のclockwiseのほうが間違いがなくてよさそうだが時計が発明される前はどう呼んでいたのだろうか、また考えてしまう。
木道には座るところが殆どない、1600mの高原歩きだが、日なたを歩き続けると日差しがあってちと暑い。やはり2000mないと涼しくはなってくれないようだ。空模様は予測では昼頃から雷雲が発達するはずだったがまだ大丈夫だ、雷にならなければ少々暑いくらいは文句はない、とにかく歩く。花はミヤマシシウドやノリウツギ、ヒヨドリバAsamaruuro ナの白い花に混じってハクサンフウロやツリガネニンジン、アサマフウロなんかが目に付く、それほどマッシブでないところが涼しげというのだろう。去年の池の平湿原にくらべれば迫力不足は否めない。最後の辺にかかったところで木陰となったので木道の端っこに座って食事とする、何だか落ち着かない。そのうち ひらひらと舞う白い蝶が現れてくる、アサギマダラだ、ヒヨドリ花が好きなようだ、何頭も現れる、それにしても日陰のすずしいところで出現するのはやはりこの暑さにはまいっているAsagimadr のだろうか。写真にとって後で拡大してみると1頭にマーキングが見える、どうやら隣の美ケ原で6日ほど前にマーキングされたようだ。それにしてもマーキングを見つけた人がうまく連絡してくるのだろうか。電話や住所が書いてあるわけでもなく仲間内の符号のようで一般の人が見つけても多分連絡できないだろう。それにしてはこんな書き込みをされる蝶がかわいそうに思えてくる。試しにインターネットで連絡先を探してみるが最近は発見者が連絡できるようにはなっていないようでやっと見つけたメール宛先もアドレスが閉じられていた。なんだか虚しくなる。

湿原を堪能したあと諏訪大社へむかう。
諏訪大社には4つのお宮があるが発祥の地といわれる上社の前宮から訪れてみる。ここはやや小さいが4隅Maemiya2に立派な御柱が刺さっていて、本殿裏には3本の巨木が見える、樹齢500年は優に超えている雰囲気だ。神社の社殿は昭和のはじめに建て替えられていて重要文化財でもなんでもないが 古から存在し続けた証が3本の巨木のようだ。みれば3本というのは軒下の神紋も3つの花の絵柄だし神社のそのほかの木を見ても3本ごとに植えられた形跡がある。何かありそうだ。本宮にも参って、戻って調べると、諏訪大社は奥が深い。本来の祭神はミシャグチ神という土着の神でこれを大和朝廷がYashimawl 征服した歴史があるようだ。東日本一体にシャクジ様と呼ばれる土着の神を祭る信仰が神社以前にあったと柳田国男が丹念に調べている。ミシャグチのミは三かもしれない。古事記にも諏訪に封じられた神の言及がある。八島ヶ原湿原に御射山(ミサヤマ)神社というところがあって古くから諏訪神社の御射山御狩神事が諸国の武将を集めてあたかも大運動会のように八島ヶ原湿原一帯で戦の技を競わせて繰り広げられていたという、戦には自信のある地だったのだろう。湿原の一角からは当時の観客席跡も発掘されているようだ。

ミシャグチとミサヤマ(ミシャヤマとも読める)、もとは繋がっているように思える。諏訪大社の神事には奇妙なものが多い、いけにえをささげる風習のなごりが伝わっているらしく、江戸時代まで春の例祭には 75頭の鹿の首が毎年ささげられていたと記されており、その昔は人間のいけにえもあったようだ(1年神主)。なんともおどろおどろしい世界がこの諏訪という地に流れていたことになる。残り2つの春宮、秋宮はミシャグチ神(モレヤ神)の見張りとして大和朝廷が派遣したのではないかとの見方もあり、大和朝廷も、織田信長も、この地を押さえ込むのに苦労を払った歴史がうかがえるようだ。和田峠近くでは石器時代から良質の黒曜石が盛んに産出されており縄文時代の軍事的文化的拠点がここにあり続けたとも考えられる。このおどろおどろしさは月山の湯殿山神社を思い起こさせてしまう。これが狩猟で生きる縄文の雰囲気なのだろう、そしてこのおどろおどろしさと戦う武器の一つが仏教だったのだろう。大和朝廷が仏教を執拗に全国に広めようとした気持ちもわかるような気がする。

日本はどうやって今の日本の姿になったのか、少しずつ解けていくような思いがしてくる。
軽井沢に戻ると驟雨のあとがあちこちにあった、激しい雷雨が通り過ぎた後だった。これで少しは涼しくなる、こんなことが繰り返されて次第に秋を感じるようになってくるのだろう。10000年前から変わらぬ四季の日本を感じるようになるのだろう。

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