かもめ
チェーホフのかもめをやっと読んだ。やっと、というのも変ないいかただが、今までに気になって何度も読みかけてはまともに読まずじまいになっていた。ロシアの長い名前を頭に入れながらの戯曲というものがどうにも先へ読み進めるのを妨げたのではないかと思っている、し
かし少々言い訳じみている。かもめは主人公に運悪く撃ち落とされる、偶然の遭遇がかもめにとって致命的な結果をもたらしたことになる。かもめはうら若い女性を象徴し主人公の恋人のことでもあった、彼女は主人公の家の別荘でたまたまあこがれる高名な小説家(主人公の母の恋人でもある)に出会い子を設けるまでの恋に陥るが結局は別れ子供も死んでしまう、全ての不幸が偶然の遭遇から起こっている。恋人てあった女性は度々私はかもめと主人公に向かって書き送り、語っている。冒頭で主人公が書下ろした25万年後の地上の全ての生き物が死に絶えたった一つの情念だけが存在し続けるという劇中劇が主人公の恋人によって演じられるが、人生の生きていく生き様の虚しさを暗示しているようにも思われる。主人公は去っていった恋人に数年後に再び再会するがその力強くもある現実的な姿・考えが彼に絶望を与え主人公は自殺して話は終わる。ストーリー展開の劇的な部分は語りによってのみ示される。舞台は殆ど変わらない別荘の一室で終始する。こんな話だったのだ。ストレートな戯曲ではない。饒舌とも言える語りがその他の登場人物によっても語られる、今更ながらチェーホフの立体的な才能を感じてしまう。
テレシコワが宇宙へ初めて出た時の第一声が私はかもめだった。テレシコワのコールサインがかもめだったことからそうなったのだが、テレシコワは撃ち落とされること無くまだ存命で昨年末にはロシア総選挙に出て一度離れた政界へも復帰している。恐るべき偶然がテレシコワをここまで導いたのだろう。裏返しの意味での私はかもめだったように思えてくる、テレシコワの宇宙飛行の後は20数年の間ソ連は女性宇宙飛行士を育てなかった。女性の一番乗りもソ連が制したことにのみ意味があったのだろう、いかにも政治的だ、必然ではなかったという意味で偶然の作用が大きいように思える。
チェーホフのかもめが気になっていたのはたまたま当時新聞で見たテレシコワの私はかもめという第一声が頭にずっとあったためではないだろうか、そんな風にも思っている。偶然の遭遇が折り重なる生をあたり一面に存在させている。偶然の作用が弱い生き方なんぞ つまらないもののように思えて、そういうことか、と何かを見つけたような気がしてくるのが面白い。
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