木村伊兵衛の写真と能古島と
片付けをしているとこんなものがあつたのか、と思うことがある。数日前も木村伊兵衛の写真集がでてきて見ていたら、戦前の映像ばかりだが川端康成の若い写真や横山大観のこむづかしそうな姿の映像が現れて引き込まれてしまう。木村伊兵衛は1901年の生まれだから戦前の世界が人生のベースとなっている。印象的な屋外の普通の人の写真にはシャープなピントや高い解像度は無いが切り取られた時代そのものの姿がよく伝わってくる。何でもないアマチュアのような写真と見過ごしてしまえばそれまでだが、今自分にこんな写真か撮れるかといえばむつかしい気がする。たまたま撮れたような風情だが場所とフレームとタイミングをよく見計らっているようだ。4次元の切り取り方が真髄なのだろう。それをそうと感じるのが大事なのだろう。未だにうまい写真とは何かよく解らない、被写体が発する何かを写しての作為を感じさせずに直接的に伝えてくる写真がうまい写真のような気もしている。
昨日能古島へ行ってきた。菜の花が美しかった。船で10分でいける島だ。写真を何
枚か撮る。むせ返るような菜の花のにおいは伝わらない、その日差しのぬくもり、けだるくものんびりした風、そんなものも伝わらない。他人に伝えることより自分が経験することの方が何倍も面白い、当たり前のことのようだがそれが真実なのだろう。木村伊兵衛の写真もその被写体に会い、その現場に行くこと、そのほうが恐らくはるかに面白かったに違いない。写真を撮るという行為にひかれるのは体験そのものが深まる、それに魅かれる、そういうことかもしれない。
能古島の帰りの船便に下校する多くの小学生の姿があった。島の小学校に市内から通う、逆のようだがそれが眼前に繰り広げられている。考えてみればうらやましいことのように思えている、時代はやはり本質へ向かっているような気がしてきた。
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