« 大授搦(だいじゅがらみ) | トップページ | 気象の予測範囲が未来に伸びていく »

2013年4月 6日 (土)

南阿蘇の一心行桜に向かう

九州の桜は巨木の名木が少ないように思っていたが、南阿蘇に一心行桜という樹齢400年以上の巨木があって見事だというので、幾つかの理由をくっつけて南阿蘇まで出かけた。日帰りするのも慌ただしいので南阿蘇に1泊としてしまう、次第に気ままなペースが板についてくる。

くっつけた幾つTamanaktkかの理由の一つに玉名市の旧玉名干拓施設を見に行くことがある。この間 大授がらみに行って野鳥とは別に有明海の干拓事業へ注がれている歴史的執念のようなものを感じて少し気になっていたら、たまたまネットで玉名の干拓施設遺構が重要文化財に指定されたのを知り、通りすがりにこれを見ていくのもいいのではないかと思えてきた。玉名は行ったこともない、西南の役の激戦地 田原坂の近く位しか認識が無い。

玉名インターで下りてTamanaktk2ネットで調べた地点に向かってナビで進むが干拓地に入ってくるとナビは堰の上の細い道をガイドしたりどうにもあぶなっかっしい道を示すようになる、いい道が少ないということかもしれない。ともかく到着する。万里の 長城のような石積みの壁が海岸線に平衡に視界の限り続いている。ちょっとしたものだ。勿論干拓は今は遺構を越えて広がっていて堤防の外に人家や田畑が続いているのだが災害でもあれば今でも役に立ちそうだ、どっしりしている。残っているのは明治のものだが説明版によれば加藤清正の時代から干拓事業は始まっていたらしい。思えば7世紀白村江の戦いに敗れ新羅軍の九州侵略を恐れてIsibasi 大宰府の北側に築かれた壮大な土塁である水城といい、元の侵略を防ぐために造られた元寇防塁といい、九州の地には長い堤防を築くという発想が古代から染み付いていたようにも思える。明治に入っても干拓事業に長大な堤防を築くのは当然の帰結だったのだろう。圧倒される遺構だがアプローチがしにくく余り人が訪れている風でもない、何かもったいない。
玉名から植木を抜けて菊陽や大津の石橋を幾つか探訪しながら阿蘇に至る。井口眼鏡橋、光尊寺橋と 肥後の石工によって用水路に造られた小さいが見ごたえのある石橋が次々にあらわれる、心地よく風雪に耐えている。土木の熊本だ、そんな言葉が浮かぶ。
Issinngyouskr1 さて一心行桜だ。平日だが人が多い。バスも何台も停まっている。駐車場から数分で到達する。思ったより横広い。散り始めており所々薄いだいだい色の新しい葉が出始めているが却っていろどりが複雑になり陰影があって見飽きない。エドヒガンかと思っていたらヤマザクラという、最近の調査で決着したらしい。数十年前に雷に打たれた結果 幹は根元から8つに割かれて横へ広がっているが、むしろ雷にも負けない力強さが発されている。生き物としての強い桜を感じさせる。なかなかの木だ。ここまで生きながらえたのは水も良かったせいだろうか、近くには白川水源の湧き水をはじめ湧き水が多い、そんなことも考えてしまう。

遠くから見ていれば常緑樹に覆われた陰影の薄い九州のイメージが入り込んでいくと次第に深みのあるものに思えてくる。あきない。のんびりして過ごすはずが、走り回っている。こんな生き方は簡単には変わらないのだろう、そうも思っている。

|

« 大授搦(だいじゅがらみ) | トップページ | 気象の予測範囲が未来に伸びていく »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 南阿蘇の一心行桜に向かう:

« 大授搦(だいじゅがらみ) | トップページ | 気象の予測範囲が未来に伸びていく »