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2013年7月26日 (金)

暑い夏が

暑さもたけなわで今年の夏は異様な感じさえする、ただしこれは西日本の暑さで東北はまだ梅雨が明けない。いったいどうしたのだろう。
暑さの方は高層までの天気図を眺めている限り中国大陸がその源だ。太平洋高気圧の名がKousoukionn ある中部太平洋はむしろ北の冷たい大気がここまで南下して涼しい気温となっている。
中国大陸の暑さの中心はどこかというとそれはチベットだ。チベットは高度が高く地面が直接太陽で加熱されるため高度の割りに気温が高くなり、この大気がこのまま高度の低い 気圧の高いところまで降りてくるととんでもない高温を生み出す。
このところ年を追って暑さが増してくるのは何故だろうと思っていて、CO2では急すぎるし局所的な説明は困難だと思いながら、ニューズウイークを何気なく読んでいるとヒマラヤの氷雪が急速に解けているという記事に出合う。また氷河消失を喧伝するCO2温暖化のあおり記事かと思えばそうではない。氷河が加速的に消えつつあるのは事実のようで、その原因としては小さな煤煙が降り注いでいるためのようだ、煤煙(スス)が目につくとある、前から指摘されていたことではあるがこうも暑い夏を経験するとこれだ と思ってしまう。
細かいススが氷河を溶かしているという話はグリーンランドの氷河消失でも主犯と疑われている。ヒマラヤでは地理的に近い中国やインドの経済活動活発化がその源と疑われるが、中国やインドに経済活動を抑制しろとは誰もいえない。かってロンドンがそうでありロスアンジェルスがそうであり東京がそうであったように経済規模が急拡大すれば公害物質はどうしても増える、これは人類の辿ってきた道だ。公害対策を徹底するよう要求してもエネルギッシュにビジネスを拡大している企業体にはなかなか聞き届けられないというのも歴史が示している、各国が対策に協力するとしても中国、インドを犯人扱いはできないだろう。

ススが絶え間なく氷の上に舞い降り太陽熱を吸収してヒマラヤの氷河は解け続けヒマラヤ高気圧は年毎に強くなって当分暑さは増していくだろう。中東では夏は45度なら涼しいというらしい、それに比べれば38度くらいでは驚くに当たらないともいえる、慣れれば人類は生きていける。数十年たてば中国、インドのエネルギー消費も一段落し公害対策もいきわたり 落ち着いてくるだろう、数十年は地球の歴史からは瞬くほどの間でもない。目くじら立てずに穏やかに受け入れれば凡そはそれで済むことだろう。

寒さの極のほうも強まっているのではないかとの兆候がある。CO2温暖化議論のような地球の平均気温が数度上がるのが大問題という時代ではもはやなくなっているようだ、平均ではなく寒さはどこでどこまでいくか暑さはどこまで行くかということが問題になる。
北極の氷が夏に大幅に解ければ暖流の北上が弱まり北極を中心とした地域の冬の低温が却って強まるという傾向が知られており近年の冬の大雪はこれが原因と思っていたが、冬の寒さが目に付くようになっているのはこればかりでもないようだ。
太陽の活動からは現在は太陽活動の弱まる時期に入ってきており、トータルとして地球の寒冷化が進行しつつあるというのもまた事実のようだ。太陽の黒点変化の11年周期がこのところ長くなっておりこの状況が300年前の太陽活動が弱く寒冷な時代となったマウンダー極小期のはじまりに類似していることから、今後太陽の活動が弱まり地球は寒冷化していくのではないかと疑われている。万年単位の周期の長いスパンの変動でも温暖な時代は終わり次の氷河期に向かっている時期であることも間違いないようだ。

幾つかの現象を考えると温暖化と寒冷化が同時に起こっており冬はますます寒く夏はますます暑くというのが現在の状況の素直な解釈のように思えてならない。夏と冬の境目では強力な寒気と強力な暖気がぶつかり激しい気象が生じることになる。こういうものだと思って大雨も激しい雷雨も竜巻もやり過ごさねばならないのだろう。そういう時代に生きているのだと受け入れるべきなのだろう。

これから1億年は続くと思われる人類の時代には1万2千年から2万年ごとの氷河期も周期的に何千回と経験していくだろう、地球と太陽の運動に支配された長周期の気候の波動を経験していくだろう、それを思えばこのくらいの揺らぎは人類が今後経験する変動の走りを見せてくれているようで未来の人類との経験の共有を与えてくれているようで好ましささえも覚えてくる。
暑い日は冷房の効いた部屋でこんなことにのんびり考えを遊ばせるのも夏らしくていい。

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2013年7月23日 (火)

アシアナ航空の事故が考えさせられて

Asianaaccident
アシアナ航空がサンフランシスコ空港で着陸に失敗、炎上してもう2週間以上たった。
(添付写真はwikipediaより)。
事故がおきたのは2013.7.6 18:28(グリニッチ時)(11:28 現地時間)で 米国サンフランシスコ空港滑走路28端 で発生した。機体はAsiana航空のボーイング777-28EER、エンジンは P&W4090、天気は特に問題となるところは無く緩い左横風、視程は10マイル以上で良好だった。
まだ事故原因の説明がないのは慎重な対応のような気がしているが、まあこんなものだろう。今までに明らかにされている事実からは、最終的にはバイロツトミスだが、単にパイロット個人に問題があったかというと、そうは言い切れないように思える、他のパイロットであれば何の問題もなかったかというとそうでもなさそうだ。これまでに明らかになった限りでは、機体に問題は見出されていない、気象条件はどうみても良好なコンディションだった、パイロットはコクピット内に3人もいて操縦していたのは1万時間のベテラン、777への機種転換中とはいえルールに従ったやり方で操縦を担当しており、逸脱は無い。滑走路のILS(計器進入システム)が工事中で作動していないが、ILSのない滑走路は幾らでもありパイロットの資格があってILS無しの滑走路へアプローチができないということは到底考えられない。要するになんら問題が無いところで起こった大事故だったというところに今回の事故の最大の問題があると考えられる。どこかにシステム上の問題があるということになる。

事故の経緯を追うと、滑走路のILSが工事中で目視による着陸進入となったためかオートパイロットは高度1600ftで切られてマニュアル操縦でアプローチしている。ILS無しではPAPIという支援装置の4つのランブの見えかたで進入角度を判断する。赤が3つ以上見えればパスが低過ぎ、白2つ赤2つがみえれば丁度いい角度ということになる。バックサイドコントロール(操縦桿を引き迎角を増やせば却って沈下が増える)となる進入フェーズではエンジンパワーでパスをコントロールし速度の変動を操縦桿でおさえるのが原理的には正しいのだが、このフライトでは速度の維持はオートスロットルに任せて操縦桿でパスを間接的にコントロールしようとした、オートスロットルが機能すれば実用上は特に異常な操作というわけでもない。ところがオートスロットルが思ったようには働かず、最後にパスが低くくなったのをパイロットは操縦桿を引くだけで回復させようとして速度は急に減少し沈下が更に増えて失速に近い状態で滑走路端のコンクリートの出っ張りに主脚と尾部をぶつけ、滑走路に滑り込んだとみられる。
何故オートスロットルが思うように働かなかったのか、何かのタイミング(たとえばオートパイロットオフのタイミング)でミスでオートスロットルを切りパワーが上がらないのをみて急遽オンにしたのが間に合わなかったかもしれない、またはフライトモードの設定をFLCH(flight level change)として滑走路高度にレベルオフするような設定にしていたのかもしれない、このモードでは失速に接近しない限りレベルオフするまでオートスロットルは効かずこの場合ではエンジンアイドルのままとなる、いずれにせよパワーがアイドルから僅かばかり増え始めたのは激突8秒前、高度125ft速度112ktでもう後が無かった、この時でもパイロットは機首上げを続けていたため間もなく失速状態に陥り事故となったとみられる。
ミスがあったとすればほんの最後のところだけだが、これだけのことで大事故に至るのを防げなかったシステム全体の脆弱性に問題があるといわざるを得ないように思える。ちょっとした思い違いが即大事故というのでは人に安全を頼りすぎている。1万時間ものベテランパイロットでも間違えうるというのでは乗客はたまらない。
クリティカルなフェーズではオートスロットルに頼らない教育を徹底するか、FLCHモードのようなモードを低高度では選択できないようにするか、その他調べていけばまだつぶすべきことが幾らも見つかるだろう、2重3重のガードをかませる必要があるようだ。
この事故では死亡した中国人の16歳の女の子一人は機外で駆けつけた緊急車両に引かれて死亡したことも米当局から明らかにされており、今後に課題を多く残す事故となったように思える。どうあれ事故の詳細をとにかく隠さずに明らかにする、その姿勢のみが未来に向かって前に進めることができるのだろう。どういう事故報告が今後出されていくだろうか。

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2013年7月14日 (日)

屋久島の旅ーーーその3

屋久島の旅3日目。
縄文杉登山から帰った夜は宿の階段を上るのもつらいほどだったが翌日には大分回復して、予定の白谷雲水峡に行くことにした。宿を出た朝8時過ぎでは薬屋はまだ開いていなくてエアーサロンパスは入手できないがイオン飲料を大目に買い込んで向かう。周回道路から左に折れて走りやすい道で高度600mまであげYakusm21 る。駐車場には既に沢山のクルマが停まっている。歩道入口の沢の眺めが涼しげだ。今日も晴れている。屋久島の天気は大体がこんなものですよ、と宿で言われる、雨ばかりというのは中心部の山岳地帯のことのようだ。島の森に絡まる湿った空気が暖められれば相当温位の逆転が容易に起こって上昇気流が発達しやすく雨を降らすほどの雲にまでなることはいかにもありそうだ。森があるから雨が降る、雨が降るYakusm22 から森が育つの循環が成り立っているのだろう。
この日のルートは苔の風景が主眼なので楠木歩道経由で苔むす谷に向けて歩けばいいかとの心積りだ。沢を上る道から程なく右岸の急な斜面を上がって楠木歩道に入る。この道は江戸時代に年貢米の代わりとなる木材を運ぶために作られた道そのものだという、普通の山道だ。木材の運搬は大変な仕事だったに違いない。しかしこのくらいの道で運べる程度にYakusm23 しか伐採できず自然の姿が維持できたとも思える。屋久杉の伐採の多くは戦後の機械化された林業によっているようだ、人間の文明が進化すればそれだけ破壊的にもなる。あたりまえのことを改めて考えてしまう。
今日は短いコースだしどこでも引き返せるとゆっくり景色を見ながら歩く。水と木と苔と石の作る風景がなんとも言えなくてどこを切り出しても絵になる。特に苔がいい。ヤクシカもヤクザルも方々で姿を見せる。シカは苔も食べるようだ。餌は無尽蔵といってもいい。苔は杉苔が主のようで杉苔Yakusm25 の間から杉のような小さい葉が出ていたりする。縄文の昔がそのまま今に流れている時と重なってくるように思える、やさしい森だ、いい森だ。
沢が細くなって時々渡渉する、上流で急な雨が降れば渡渉も厄介になるかもしれない、そんなことも考えるがいまのところ島の中央部の雲は積乱雲にはなっていないようだ、まだ大丈夫そうだと緩やかなのぼりを歩いていく。それなりのリスクがあるコースだからだろうか、ここもガイド付きツアーが目立つ。昨日縄文杉を歩いていた人に何人も Yakusm26_2 出会うし山ガールも多い。昼前に白谷小屋に着く、ここは水場もあり丁度いいかと弁当をたべる。その先の苔むす森と名づけられたところまで行って引き返すことにする。1日中散策しても飽きないように思える。

ゆっくり山を降り空港近くの日帰り湯に入って4時前に屋久島空港を後にする。
屋久島は観光の島ではなかった、存在し続ける森らしい森全体をただただ感じるだけの島だった。どこを切り取っても素晴らしいし、どこを切り取っても同じといえば同じだ。もう十分と思Yakusm27 えばそれもよし、もっとと思えばまたくればいい、すこぶる個人的な思いの島だった。それがとりわけいいのだろう。

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屋久島にてーーーその2

屋久島の旅2日目は縄文杉への長い道のりだ。天気は予想通りの晴れとなった。往復およそ22km,標高差700m、山道では歩いたことの無い厳しさだ。4時に起き宿に頼んでおいた朝昼食2食を受け取って4時半前に宿をクルマで出発、専用バスの駐車場に向かう。4:44発の始発バスは既に満席で乗れない、待っている間に朝食を食べて5:00発のバスに乗り込む。まずは予定通りだ。結構なスピードで細い山道を走るバスはおよそ35分で登山口へ運んでくれた。

登山口はトロッコ線路の終点になっていてここから8.2kmのトロッコ線路をひたすYakusm11 ら歩く。最初の1時間ほどは枕木を踏みながらですこぶる歩きにくいが旧小杉谷小中学校跡からは線路の中央に板が渡してありおよそ木道歩きの感じとなり歩きやすい。それにしてもこんな山の中に小学校があったということに驚かされる、戦後も盛んに屋久杉は伐採されこの地に集落が1970年頃まで存続していたという。

一休みしてまた歩く。尾瀬ヶ原の木道歩きも長いがそれより更に長い、おまけにその先に急な山登りがくっつくから大変になる、とりわYakusm31 け厳しいのが最終下山バスは18時発と決まっていることでこれに遅れるととても歩いては人家のあるところまで戻れず野宿ということになる。相当なリスクだ。そんな事情もあってかこのコースはガイドの率いるグループが殆どを占める。中には個人ガイドで歩いている単独山ガールも時々いる。登山者が皆若いのも他の山とは違う、年寄りにはきつすぎるしピークハントもない、山ガールだらけだ。こちらはGPSと地図で時間と距離をみながら行けば大丈夫だろうとガイドなしとした、

18時までにはまYakusm32 だ行程に余裕があるとばかり景色を見たり鳥の声を録音したりしてのんびり歩く。鹿が多い。ヤクシカという屋久島特有の鹿でやさしく小型でかわいらしくアニメにも出てきそうな鹿だ。本土のがさつなホンシュウシカとは随分違う。サル(ヤクシマザル)もしばしばあらわれるがこちらものんびりしていて日光のサル(ホンドザル)とは別の種のようにみえてしまう、亜種で小さく人を警戒してもいない。イノシシはおらず深刻な食害問題もないようで全体に動物は平和な世界を形作っているように見える。朝は 野鳥の声も多くコマドリが直ぐ近くでさえずったりして礼文利尻の旅を思い出してしまう。森が深いだけに姿は殆ど見えないが鳥もいい。長くても楽しめるコースだ。

登山口からおよそ3時間30分かけてトロッコ道終点の大株歩道入口に到着した。 標準で3時間弱だから大分遅れているがまだ続々とグループが到着しており時間的な余裕はある感触だ。ここからウイルソン株をへて縄文杉に至る上りにかかる、結構きつい。若いグループに次々に抜かれながらも出発後4時間20分でウイルソン株に到着する、ここまでくればまずまずで後は行けるところまで行けばいいとの心つもりだった。人が多くて切り株内部に入るのに順番待ち状態だ。入ると随分な空洞だ、ハート型の断面の大きな空洞が残されている。こういう状態では年輪はどう数えるのだろうか考えてしまう、最
Yakusm34外縁部が生育を始めた年として数えるのだろうが空洞まですぐに達しそうだ。木は新しい内側から死滅していき内側の空洞の大きくなって寿命が尽きるらしい、広がり方が遅ければ長い寿命を保てるということになる、人の脳の老化のようだ、昔のことは覚えているが最近のことはすぐ忘れてしまう。

中心部に空洞ができると単純に年輪を数えれば樹齢が分かるということは無くなり年輪の同定が必要になる、樹齢の算定は簡単ではないようだ。この株ではYakusm35およそ3200年前ということになっている、とにかく古い。歩きながら幾つかの切り株を見ると小さな切り株の一番内側に小さなハート型の空洞が見られることがある、若い頃から老化が始まってしまうものもあるということだろう、人の命と重ね合わせてしまう。

ウイルソン株から急な階段のぼりがあって次第に疲れてくる、大王杉に着く頃にはしたたる汗に限界を越えているのではないかと思い始める、しかしここまでくれば縄文杉はもうすぐだ、引き返しづらい。

予定の引き返し時刻12時をやや回るがまだ後続が大勢いてここまできたのだからと一上りしてついに縄文杉に到達する、12時18分、歩き始めて6時間30分近い。縄文杉はそばには寄れず離れたところから観察するほか無いが観察場所は大混雑で順番待ちとなる、スケジュールからいって昼頃にここに人が集中するのは避けられない。
樹齢は色々説があり4000年とも6300年とも7300年ともいわれる、いずれにしろ古い。生き物は長く生きるとこうなるのかと感じさせる、麗しさはなくなり生命力本来の執念のようなものの固まりに見えてくる、これは偉い、ほとんどの
Yakusm12人類文明の歴史とパラレルに生き続けた存在感がすごい。われわれは今後6000年生きる生物を育て始めているだろうか、そうでなければこの屋久杉は空前絶後の存在なのだろうか、色々考えてしまう。人類文明の歴史もまだこんなものなんだとも。

戻り始めてものの20分も行くと突然右足の太ももがつりはじめた。休んでしばらくさすると良くなるが、数分歩くと今度は左足が同じようになる、交互に起こってだんだん厳しくなる、戻りの距離を考えて戻れないのではないかと不安が頭を占領する。

道脇に足を投げ出してさすっていると大丈夫ですかと何人もから声がかかる、中にエアーサロンパスを持っているガイドの方が居て両足にたっぷりかけて簡単な治療をしてくれる、さらに薬の効き目が切れた時にと貼り薬を数枚提供して下さる方も居て頭が下がる。さすって血が流れればすぐに回復する、登りのように血圧の高い状態で血流を送っているときは出にくく下りで足が浮いたようなときに出やすい、症状の出方が血流と関係あるようでそんな感じだと説明したら言いながらこれは熱中症の初期症状かもしれないと思った、持ってきたのは水やお茶ばかりで塩も無く大量の汗で塩分が出てしまえば血栓ができやすくなっているのではないかと気になってきた。そう思っていたらエアサロンパスの処置をして頂いた方が粉末のポカリまで分けてくれた。本当に有難い。

次の水場で500mlのポカリを作って一気に飲み干す。何とかなるかもしれないと思えてきた。こんなときの親切は何にも代えがたい。それにしても熱中症対策を考えてこなかったのはうかつだった、標高1000mの樹林帯では気温も大して上がるまいとたかをくくっていたこともある。梅雨明け直後のこの日は十分に暑い日となった。

足は何とか動いてくれて貼り薬の助けも借りながらようやくトロッコ道まで降りてきた。多くの人に支えられて自分は生きていると思い知らされる。後はひたすら緩い下りを歩くだけだと安心した。脈絡は無いがただただ森の命という言葉を改めて感じる。

まだ最後部ではないと歩いていると次々に抜かれて後ろが少なくなっていく。途中の計算では5時半頃に着きそうだと思っていたがさすがに疲れて休み休み歩き、しだいに危なくなる、とにかくできる範囲で急ぐ。結局やや遅れたもののなんとか5時40分にバス乗り場に到着した。6時の最終に間に合った、しかし際どい。これからは山歩きするときはエアーサロンパス、貼り薬、粉末ポカリは必携だ、そして今度は自分が誰かを助ける責務を渡された、そう思っていた。単なる古い杉を見たということをはるかに越えた体験全体が強烈だった。
最終バスに乗ればまた普通の世界が戻る。翌日は歩けるものなら白谷雲水峡をとにかく歩いてみよう。宿の食事の後はただただ眠る。

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森の島屋久島へ行くーーその1

屋久島は一度は行かねばと思っていた場所だった。若い頃は宮之浦岳が九州で一番高い山ならそこは登っておかねばとの思いが先走っていたがいつの日からもう高さはどうでもよいと ピークを踏むことにさほど価値を感じなくなってきて興味は屋久杉とそれを含む自然全体へと移っていった。今週実現した2泊3日の屋久島への旅から帰ってきて長年の課題をやっと果たしたというよりその濃密さが体の中をぐるぐる回っている。景観というより頗る個人的な体験全体が強い印象を残した。
最初から書き留めておこうと思う。
屋久島へは福岡から日に1便ある日本エアーコミュータ(JAC)のサーブ340B(36人乗り)で飛んだ。自宅から空港まではクルマでいって空港近くの送迎付きパーキングに停める、1日800円だからタクシー往復の半分以下だし、随分気楽だ。SF340には海外で乗ったことがあるような気がしていたが空港のエプロンを歩いてタラップを上がり機内にYakusm1 入ると初めての機体だった。1-2の3席配置の'1'の窓際に縦2席で座る、巡航高度が低いため(18,000ft位)地上の景色が良く見えて楽しい。
開門岳を過ぎると洋上には雲が無い、明瞭な梅雨明けだ。程なく晴れた屋久島空港に着く。空港の周りは森が支配しているようで森に埋もれるように幾つかの建物が見える。屋久島は森の島だ、改めて思い知らされる。

空港出口にレンタカー屋が迎えに来ていてそのまますぐそばの日産レンタに向かう。軽を予約していて対馬の不調な軽のようなことにならないかと懸念していたが出てきた車はモコの新車だった、走行距離はまだ2500kmだ、対馬のレンタカーより随分といいし対応もビジネスライクだ、やはり世界遺産の島だ観光客慣れしている。すらすら運んで予定よりやや早いペースでこの日の目的地ヤクスYakusm2 ギランドに向けて出発する。14:20屋久島着ではいけるところは限られてしまう、この日はヤクスギランドの50分コースを回ることにしていた。広い道幅がやにわに細くなったりする道路を4-50分走って到着する、みやげもの店が1つと入り口ゲートがあるばかりだ、シンプルで感じがいい。出発地点でヤクシカが車のそばに現れる、随分とおとなしいし人を警戒していない、日光のシカとは大分違う。

ほとんどが板張りの良く作られた遊歩道を歩く、足慣らしには丁度いい。屋久島についに来たと屋久杉をYakusm3眺めながら歩いていたのだが今から思い出そうとすると何処か印象が薄 い、随分前のことに思えてしまう、その後の縄文杉、白谷雲水峡の印象が強烈に残っているためだろうか。一回りした後、紀元杉という樹齢3000年といわれる杉も見てみる、複雑にもつれ合う造形、いかにも長い年月がその上にある。ヤクスギランドから紀元杉まではクルマで移動だが雨で土が流されるのだろうか車道の舗装が傷んでいて気を許すと道路の舗装の穴に落ちる。走りにくい。自然に圧倒される人間の営みをどうしても感じてしまう。森がすべてを支配している島だ。
宿は安房(あんぼう)のビジネスホテルのようなところだったが食事は凝っていてとびうおの飛んでいる姿の揚げものが出てきたりする、面白いしおいしい。翌日の登山バスの切符を受け取ったり弁当をお願いしたりして次の日の縄文杉登山に備える、ここYakusm4 まではいつもの旅の雰囲気だった。(続く)。

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2013年7月 4日 (木)

樫原湿原にて日本の広さを思う

梅雨も佳境に入ってきた、梅雨前線が押し上げられてきてそろそろ九州の梅雨も終盤のようだ、蒸し暑い南の大気塊がぼうぼうと吹く南風となって押し寄せてきた。
もう10日ほど前のことになってしまったが樫原湿原(かしばるしつげん)というところに出かけてみた。背振山系の佐賀側の山中にあって唐津市に属しているから佐賀県北部と言うべき場所だ。ハッチョウトンボが見られると人に教えられて出かけたのだが、標高が少しでも上がれば涼しいだろうとの期待もあった、標高は凡そ600mだ。
この5日ほど前に背振山頂付近にブナ林があるというのでそれを見てみようと東の那珂川からのアプローチをクルマで走り回った、ミスコースのあとやっと見出した山頂へ通じる道路が通行止めになっていて結局たどり着けなかった、どうやら佐賀側から少しいい山頂への道があったらしいと後で分かって今度は多少遠回りでもいい道を走ることにしていた。三瀬トンネルを抜けて佐賀県側に出る。三瀬地鶏の名前で少しは知られているあたりを過ぎる。福岡と佐賀を結ぶ主要道路でトラックが多い。右へ分かれてダム湖を廻り大串などという苗字にもなっている集落やちょっとした棚田の風景を抜けてともかく樫原湿原に到着する。普通の道だ。湿原からやや離れて大きな駐車場が設置されているが平日ではクルマは殆ど停まっていない。クルマを停めて湿原へ向かうが車道を戻るのは味気ない気がして右手の田んぼのヘリを回っていこうと歩く。湿原ではないがあまり見かけない花が咲いていたり蝶が舞っていたりしてなかなかいい。道が次第に違う方向へ向かっているようなので丁度見かけた農作業の人に尋ねるとこの道は湿原には行かない、田んぼのあぜを横切っていけば湿原にいけるという。またミスコースだ。
あぜを横切って車道へ出てとぼとぼ戻るとやっと湿原入り口が現れる。車道沿いの湿原で、見たところ随分とかわいらしい。ビジターセンターの機能をしている小さな小屋があってそこで尋ねるとハッチョウトンボは遊歩道沿いにいくらでも見られるという、ハッチョウトンボは宇都宮のひょうたん池のイメージしかなく葦の葉陰にスコープでやっと見えるくらいとばかり思っPhoto ていたらそうではないらしい。遊歩道を歩き始めると直ぐに道端で写真を撮っていた老けた感じの男性がほらあそこにと教えてくれる、なるほど近い。普通に望遠で撮れる。見ればあちこちにいる、なんだという感じだ。見たことの無いトンボもいて後で調べるとヨツボシトンボというベッコウトンボの仲間のトンボだった。モノサシトンボやハラビロトンボなどもいる、トンボは色々いるようだし花もカキランやユウスゲ、ヒツジグサ、ジュンサイ、コバギボウシ、ヌマトラノオ他色々咲いていてこれも種類が多い。小さな湿原にこれは驚くばかりだ。一面に花開く高層湿原の迫力は無いが生物の多様性を見せつける湿原だ。Kobagbs 厳しいところが何処か無く生きていくのが楽な九州の風土そのままの湿原のような気もしてきた。ちょっと見た目田んぼの隅の小さな湿地じゃないかとあなどっていたがそんなものではなかった。
阿蘇くじゅうまでいけば違うようだが福岡の近場の山は総じて里山そのものだ。勿論それなりにいいところがあるがしばらく過ごすと奥日光の自然の清新さがうらやましくなる、まぶしく蘇る、思ったより遠くに来てしまった気がしている。日本は随分と広い国のようだ。

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