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2013年8月31日 (土)

航空機やロケットの 事故や不具合が

航空機やロケットの事故というか不具合が何故か目に付くようになってきた。
アシアナ航空のサンフランシスコでの着陸事故の後米国の民間輸送機に2つの着陸事故が起こっている。
一つはサウスウエスト航空のB737がニューヨーク・ラガーディア空港に着陸しようとして機首下げのまま前輪から先に接地して前輪を壊し前のめり状態で滑走した事故ともうひとつはUos1354 A300貨物機がバーリントン空港の着陸で滑走路のはるか手前で接地して大破した事故だ。前者は死者は出なかったものの脱出時に軽傷を負った人が数人でた、後者は乗員2名が死亡している。
いずれの事故も機体システムになんら問題は見つかっていない、アシアナ航空の事故と同じだ。正常な機体が通常に着陸しようとしてとんでもない事故に至っている。
天候はA300事故では問題なかったもののサウスウエスト航空では進入中にそれまで背風だったのが滑走路付近では迎え風に変わったとされておりマイクロバースト状(局所的なダウンバースト)のものがあったとも推定されている。この事故では着陸寸前の高度400フィート(120m)でそれまで操縦していた副操縦士から機長が突然操縦を代わっている、マイクロバースト手前のガストへの対処かとも思われるが結局はマイクロバーストに突っ込みゴーアラウンドはしないまま操縦を誤り事故となった、この段階で操縦を代わるのはきわめて異例のことでこの事自体が事故に結びついていたのではないかとの推測も出ている。着陸寸前に急に操縦を代わるほどならその時点でゴーアラウンドをすべきだったのだろう。人同士および人と機械の対話がうまくいっていないように感じる。
A300の事故ではアシアナ航空の事故と同様ILSが使えない状態の滑走路への着陸だった。事故そのものは昔JALがインドで起こした事故と似ているようで高度に何らかの誤認があったものと思われる、滑走路を視認して僅か4秒後に木または地上の物体に接触している、この状態でのこの滑走路の最低決心高度は556ftと定められているので滑走路視認がいかにも遅すぎる、そこまでの間 高度の錯誤をしていた(まだ決心高度に達していないと思っていた)ことになる。ヴィジュアルの経路角確認装置PAPIはこの滑走路にも設置してあるが(パスが随分手前から大きく外れていて)この機はこれを使用していなかったようだ。どうみてもパイロットミスだ。パイロットは2人だがどちらかは薄々何か変だと感じていたのではないだろうか、前のケースと同様どこか会話の足りなさを感じる。
まだ航空機の着陸はヒューマンエラーが介在できる箇所だらけとしか思えない。千変万化の風の中で或いは着陸支援設備が不十分の状態で、パイロットの技量に頼って着陸するのは安全上の問題が未だに十分には解決されておらず、安全を支える技術が随分と足りないように思える。自動化が決め手の一つのように思えてしまうがそうはいっても簡単ではない。

自動化すればいいかといえばそうでもないトラブルが最近のイプシロンロケットの打ち上げで起こったようだ。

Epsilon_rocket_2 イプシロンロケットの打ち上げが直前の誤信号で自動的に停止した。昨日の発表では打ち上げ管制のコンピュータとロケット側のコンピュータの信号授受タイミングが僅かにずれていたために自動停止したとされる。リハーサルは何度もやるはずでリハーサルでここまでのステップを現実のハードで忠実にやれてなかったということになる、どこかに考え落ちがあったのだろう。そういう(人の)開発システムの問題のような気がする。
これとは別に、この打ち上げをテレビ中継で見ていてソフトの問題らしいと感じていたが、ソフト上の問題ということで思い出されたのが昨年11月JAXAのパソコン1台がウイルスに感染しイプシロンロケットの仕様や運用に関わるデータが外部へ流失した恐れがある事件だったhttp://www.jaxa.jp/press/2012/11/20121130_security_j.html。イプシロンロケットの特徴のひとつはパソコン2台で打ち上げ管制ができる簡素さにあった。その後の詳細は発表されていないがもしこの件と今回の打ち上げ中断が関わっていたとするとやや深刻なことになる、そうでないことを願うばかりだった。ロケットの打ち上げがパソコンの自動シーケンスで簡単に行えるというのは考えようによっては危険なことかもしれない。今回はそうでなかったとしても万一ハッキングされればどこへ飛んでいくか分からない、とんでもないことが起こりうる。他からの侵入やウイルス感染の恐れを排したアナログな原始的なシステムでの打ち上げのほうが実は安心できるような気もする。電磁干渉やアナログの不安定という別の問題はあるが贅沢なアナログの時代がここにも必要とされているようにも思える。

世の中は複雑化していく一方で人間の感覚とどこかでギャップが出てきてしまう、こんな問題はいい古されてはいるが今後も当分つきまとうのだろう。人間の感覚にあうのは結局は対話でありアナログであるように思われる。しかし、今後少なくとも数千万年は続くと思われる人類の未来を思えばいつかは収まっていく問題なのだろう。結局大した問題でもなくなっていくのだろう。

未来へ残っていく問題とは結局何になるのだろうか、人そのものだろうか、考えていても解らない、そんなことへと想いが発散していくのが面白くもある。

(画像はいずれもwikipediaによる)

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2013年8月29日 (木)

筑豊の記憶

暑さもようやく収まりつつある。日没も随分早くなって夜が長くなってきた。
筑豊の田川の近くにちょっとした用があってその帰りに伊田にある炭鉱歴史博物館というところに寄った。世界記憶遺産となった山本作兵衛の炭鉱の絵が多く展示してあるらしいというので月曜だったが行ってみたのだが 恐れていた通り休みだった。博物館の周辺に色々炭鉱の遺物が Entotu2 残されているのでせっかくだからと見てみて周ったがこれがいい。

幼い時の記憶では伊田駅は蒸気機関車が入れ替わり立ち代り黒い煙を吐きいかにも炭鉱の街という景色だった。頭の片隅に残っているのだが勿論今はそんな活気はどこにも無い。

大きな煙突が2本立っている、傍の説明板に旧三井鉱山伊田縦鉱の巻き上げ機の動力煙排出用だと書いてあるがそれに続けて炭坑節に歌われたのはこの煙突だとも記してもある、あれ、という感じがしないでもない。
小さいときから炭坑節というと月が出た出た月が出た三池炭鉱の上に出た と教わっていて伊田の炭鉱とは思ってもみなかった。この記述が正しければ最初は 三井炭鉱の上に出たと でも歌っていたのだろうか。
帰ってネットでみると最も詳しいとみられる炭鉱歴史博物館のページでは確かにそのように三井炭鉱の上に出たとなっているが他の普通のサイトでは、うちのお山の上に出た とある、更には三池炭鉱の上に出たとの歌詞を載せているサイトも未だにある。多分ここで始まったのがそれぞれの炭鉱の固有名詞に変えてそこで歌われていったのだろう、三池炭鉱が最後まで残ったんだろう。ここの煙突は1908年に作られているからかなり早い。炭坑節は伊田と後藤寺で本家争いがあった後伊田が本家と決着したとの記述もネットにある。しかしそんなことはお構いなしに幾つかの歌詞はどうしようもなく並行して流布され続けていく、それが言葉というものだろう、生き続けるということなのだろう、なんだか面白い。
この煙突なら月も煙たかろうと思うほどの立派な煙突だ、厭おうなしに未来に向かって栄えた過去を主張し続けている、しかしどこか空しい。このほか巨大な竪坑やぐらや蒸気機関車、炭鉱住宅なども保存されている、しかしあの活気は伝わってこない、おとなしい遺物でしかない。

筑豊というと子供の頃のイメージは菓子箱いっぱいの巨大な成金饅頭だった、どうだ、という主張があった。ほとんど無くなりかかっていたが近年復活してきているようだ。消えてしまう記憶遺産も多い。
使われなくなった固い固形物の遺産よりも巨大な成金饅頭や炭鉱節のような柔らかいもろい遺産の方が時代の雰囲気を伝え、むしろ生き残って形を変えながら未来を作ってくれるかもしれない、そんな気もしている。

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2013年8月24日 (土)

久住を歩く

暑さがまだやまない、高層の天気図を見ていると、暑さの指標となる850hp高度(高度約1500mで大気境界層上端にあたる)での相当温位の高い部分が中国から九州にかぶってくる予測となってきてこれは何処かに逃げ出さねばと急遽久住の宿を取って久住高原Kujyuu を訪れた。3日前のことだ。久住高原コテージというところが手軽に泊まれると出ていたのでここにした。

せっかくだから何処か湿原でもと久住の長者原から坊がつる湿原を往復する計画としたが少々長いし湿原歩きにしては上りが結構ある。途中で引き返しても充分いいところのようなので、峠の雨ヶ池あたりで引き返すことも想定してここを歩いてみることにした。

福岡の自宅を午前6時頃出て長者原の駐車場に8時に着いた、予定通りとはいえキッチリ2時間で着くとは近い。高速も通勤時間割引の時間帯で平日だがほぼ50%引きとなって安い。天気Cyouja0 の見通しは午後は下り坂で降り始め予測は13時過だが雷雨の恐れがある、雷雨予測 はなかなかピンポイントには当たらないものの出会いたくない、様子を見ながら進むことにする。

ビジターセンターは9時開館で待つわけにもいかず花や鳥の情報は得られないままとにかく出発する。すぐにタデ原湿原に入る。久し振りの木道歩きだ、サワギキョウやコバギボウシ、コオニユリ、のほか、ヒゴダイという紫色の葱坊主のような花も現れる。鳥も時々現れるがすぐに草に入ってよく解らない。まずまずの湿原だ。ここを抜けると沢沿いに次第に上りがきつくなってくる。鳥の声も多い。ここでもソウシチョウが多いがクロツグミやセンダイムシクイ、Cyoujya2 ヒガラ他の声もしてにぎやかだ。ブナの木も目に付く。アサギマダラも飛んでいる落葉樹の林を進む、秋もよさそうだ。
鳥の録音をしながら上っていくと雨ヶ池に至る。雨が降れば池になるというところで特に今 水がある訳でもない。マツムシソウが沢山咲いているのは驚いた、長野の花とばかり思っていたが誤解だった。ミヤママツムシソウは長野県中心の狭い範囲に生息しているがマツムシソウの方はそうでもないらしい。
Cyouja4 峠を越えて坊がつる湿原の見えるところまで下っていく、思ったよりも急な下りで下まで下りきると上り直すのは大分きつそうだ。雲行きも気になる。やはり坊がつる湿原に遊ぶにはこの先の法華院温泉の山小屋泊とすべきようだ。次の機会にとここでこの日は引き返すことにする。
少しづつ九州の自然歩きも解ってくる。生き物の様相は北関東や長野・群馬とは多少違っていても雰囲気は通じるものがある。2時間も走ればたどり着けるのなら悪くない。Cyouja6

宿につく頃には予定通りの雷雨となった。1時間ほどで嵐が去ったあと広大な阿蘇外輪 山の起伏から水蒸気が緩やかに立ち上る、ゆったりとした景観が窓の外に広がる。高い山は無いが九州の自然も素直にいいと思えるようになってきた。秋はどう過ごすべきなのだろうか。

すべてを受け入れて流れるように生きていく、それで十分でないだろうか、そんなことをぼんやり思っていた。

Koteji

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2013年8月19日 (月)

久しぶりにいい演奏を聴く

福岡という街は都会らしくコンサートが多い、何でもいいから行ってみなくてはと思っていた。そうはいっても総じてチケットが高い感じがして2の足を踏んでいたのだが、ネットで彷徨っているとシンフォニーホールを中核とした複合施設:アクロス福岡の会員になるとクラッシクコンサートが割安で聴けるとのページに行き当たる、これこれと早速申し込む。まAkuros ずは8月18日に専属のアクロス弦楽奏団の定期演奏会があるというので聴きに行く。会員価格はS席で1500円と法外に安い。これは駆け出しの楽団かと思いながら当日渡されたプログラムを見ていると団員は国内国外の交響楽団奏者や音大教授講師を集めたかなりのプロフェッショナルな陣容だ。ビバルディの調和の霊感から始まる。コンサートマスターは景山誠司だ、ソロの大半を鮮やかに演じている、アンサンブルの音もいいしよく合っている、バランスもいい感じだ、20人近い弦楽奏者が指揮者なしでこれほど合わせられるものかと感じ入ってしまう。ホールの響きもいい。続くバッハ次男作のチェロ協奏曲は初めて聴く曲だが聴きやすいし迫力がある。チェロは田中雅弘という東京都交響楽団の主席奏者だが巧みな熱演でうまい。久しぶりにまともなクラシックの演奏を聴いた思いがする、安い料金が申し訳ないがそれだけ日本の音楽シーンには腕達者がひしめいているということなのだろう。
次のやや現代風のレスピーギとブリテンの曲もいい響きで奏でられる。随分とマッシブに豊かになった気分だ。
暑い夏は涼しいホールでこんな熱演を聞くのが気持ちよい、暑さで滅入っていては何かをぼろぼろと失ってしまっているような気がしてくる。終わりの見えないような夏の暑さは降り注ぐススでヒマラヤの雪が溶け続ける限り毎年続くのかもしれない。暑さを跳ね飛ばすこんな過ごし方がこれから暫くは求められていくような気がしている。

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背振山にブナを見る

背振山に行ってみた。6月にたどり着けなかったので仕切りなおしということになる。道の情Sefuri_2 報がはっきりしている西の三瀬トンネル側からまわって行った。ところどころでセンターラインがなくなるが、対馬の周回道より相当に立派な道を上り詰めると山頂直下の自衛隊駐屯地に行き当たる。自衛隊の駐屯地入口の右横にやや細い道があってそこ進むと先が開けて山上駐車場についた。思いのほか広い。トイレもあるし自販機もある。舗装は無いが普通の観光地の駐車場だ。端っこの空いたスペースにクルマを止めて外に出ると涼しい。標高990mでは下界より6度は気温が低い計算だがそれ以上に涼しく感じる。これはいい。
木陰に入ってぼんやりしていると後から来て車を降りた2人連れがいそいそと椅子と敷物を持って直ぐ近くの木の下の良さげな場所をさっさと占領してしまう。遠慮が無い。こんな雰囲気は地方風の都会の世知辛さが出ていて栃木とも東京風とも違う。
暑そうな山頂はよして ブナの林があるという蛤岳に向かう尾根道を下っていく。木陰になっていて気持ちがいい。鳥の声が聞こえてなんだろうと久し振りに録音する。イカルに少し似ているが違う、姿も葉陰にちらちらするが結構小さな鳥のようで忙しく動いている。自宅に帰って調べるとソソウシチョウだった。数年前の冬 栃木の井頭公園で群を見たことがあるが声を聞くのは初めてだった。ソウシチョウの声 声がいいので中国で飼育されて広がったものらしいが、そこまでのいい声でもない。
道の両側にブナが見えてくる。木肌の美しさは日光や尾瀬近辺のブナほどでないがとにかくブナだ。なんだかほっとする。晩秋には黄葉をみせてくれるだろうか。ここらは冬は雪も深いBina_2 ようだ。蛤岳というのもよさそうだ、水が豊富らしい、そのうち行ってみるかと適当に引き返す。

ハイキング中の人に何人か出会う、山ガールではないおじさんおばさんばかりだ、そういう山なのだろう。
駐車場の隅の木陰でのんびりスケッチをして時間を過ごす。アキアカネがまっているし、大柄の見たことも無い黒いチョウが現れたりもしてぼんやり過ごしていても気持ちがいい。
林立する中継アンテナやレーダーアンテナそれにミサイルの模型は無粋だがそれを気にしなければいいところだ。
下まで下りてくると猛暑の夏が満ち満ちている。
すこしずつ夏の九州の過ごし方にも慣れてきた、暑くても家から出て動き回るのがいいようだ。夏の暑さもそろそろ終盤のはずだ、秋はどのようにやってくるだろうか。

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2013年8月15日 (木)

ハスとバルバラと

暑さはまだまだ続く。数日前ペルセウス流星群が極大になるというので真夜中に起きだして庭から空を見上げてみたが、もやっとした大気が覆っていて星すらほとんど見えない、星を見るにはどこへいけばいいのだろうかと思ってしまう。
こう暑いと戸外に出る機会が減るというより出るのが億劫になる。プールもひどく込んでいて運Hasu1 動不足はどうしようもない、早朝 あたりを歩くことにしていたが夜の眠りが浅くなっていることもあり今はそれもまばらになってしまった。ヨットに週1回出かけるのが運動らしい運動だが先週は熱中症になりかけてこれも安全ではない。困ったものだ。
ともかく朝の散歩くらいはなんとかと思い今朝は近くの鹿助公園に出かける。ハス池になっていて今の時期ハスの花が綺麗だ。ハスは夜中に咲いて昼過ぎにはしぼむらしいので見るなら朝が一番ということになる。
蕾が膨らみきって咲く少し前のあたりが一番好ましいのだが開いても開ききらないくらいの姿も美しい。泥の中から現れて清廉な花を咲かせるところから仏の象徴のように扱われているようで、見ていてもどこか品があり同じない強さを感じる。花の中心にある花托は上に平らな面を向けており台座のようでそこからも仏を乗せる花との発想が出たようにも思える。一面のハスの花は朝の風景としてなかなかだ。
暑い夏だが8月も半ばとなった今でもまだ蕾がたくさん残っている、もともとインド原産ゆえ暑さには強いのだろう。
360mの池の周りを一回りして戻る、メジロが2羽飛び交っている。暑くてもメジロは元気だ、これも南方系の鳥だろう。暑くても花や鳥に出会うと少し気が楽になう。

 

このところバルバラを聞いている。バルバラの遺作となった自伝(「一台の黒いピアノ」)がやっと日本でも翻訳出版されて図書館から借り出してきて眺めていた。幾多の苦しい境遇を跳ね返す力がこの人には備わっているようだ。そう思ってレコードラックにある昔のレBarbara コード[AMOURS・INCESTUESES]を聴きなおすと強いクリアーな力強さが歌声にある。自伝の文は小説のような或いは日記のような繋がっていく文章ではない、断章を組み立てたような文章だ、詩のようなといえばきれいだがそんな滑らかな文ではない、パキパキと折れる音がするような文章だ、そんな生き方だったのだろう。そんな生き方だったからこそ、聴衆に支持されるシャンソンを自ら創り歌えたのだろう。
生き方に泥の中から花を咲かせるハスの花のようなところがある、しかし重い歌が多い、長くは聴けない。
もっとCDはないかと調べるが図書館には無くAmazonでみても主要なアルバムは廃盤になっている。中古の輸入CDをとにかく1枚発注する、音楽シーンは流れている、過去の多くを失いながら先へ進んでいくのは避けられないのだろう、しかしどこか寂しい。

 

こんな風に時が過ぎていく。暑い夏はぼんやり過ごす他無いが、ゆったりとした時間が流れているようでそれも悪くない。

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2013年8月 8日 (木)

医療はデフレに向かう

Mukuge 次第に年をとってくると病院や検査との付き合いが避けられなくなる。
ヨットを始めて3回くらいのときヨットを陸揚げするスロープの苔で滑って後頭部をしたたか打ったことがあって大事をとって家の近くの脳神経外科で診て貰った。すぐにCTスキャンを撮りましょうとなってこんな街の医者にもCTスキャンがあるのかと驚きを覚えつつ台に乗るとやや小ぶりの装置が頭にかぶってきてすぐに終了する。程なく医者が頭の断面写真を見ながらなんともないようです、と言ってくれた。すぐに結果が眼に見えてこれは安心感がある。6000円取られたのは痛いが便利な世の中になった。
今回は肺だ。地区の肺がん検診というのを無料でやってくれるというので近くの公民館まで出かけてレントゲンを撮ってもらったら、暫くして現像したフィルムが手違いでぐちゃぐちゃになったので
り直したいと連絡が入った。しょうがないかと出かけると今度はデジタルだという。今度は大丈夫だろうと結果を待っていると要精密検査という知らせが郵送されてくる。結節状陰影疑だという。ここ数十年そんな所見は見たことがない、本当かと電話で念のため確認するとそのようなものが見えるので検査してほしいという、ともかく映像をDVDに焼いて送ってもらう、またレントゲンの撮り直しでは被曝上気持ちよくない。数日して送られてきた画像を見てもそれらしい影は見えない。素人だから見えなくてもそんなことも有るかとクルマで10数分のところにある日赤病院まで出かけて診て貰う。ひどく混んでいたが、DVDの映像を出すと普通のノートパソコンで医師が眺めてくれてたぶん大丈夫だが細かく見るためCTスキャンを撮っては、とくる、勿論同意してやってもらう。
今度は胴体で頭のときより少し大きい装置だ、2回息を15秒くらい止めてスキャンする。2スキャンするのが手順のようだが立体にするためだろうか。暫く待っているとまた呼ばれて医師の前のディスプレイに今度は胸の断面が上の方から順に見えてくる。肺のヘリのところに古い病の痕跡が見えるがたぶん風邪をひいた時のものだろう、特に問題ない、肺本体には何もない、と説明してくれる。よく解るし安心できる。やはり検査機関は僅かなことでも精密検査にまわすようだ、これでは病院が混むわけだ。また6000円とられる。この辺りの判定を検査機関のレベルでもう少しきちんとやるだけで医療費は大分減りそうだし病院の混雑も軽減されそうな気がする。CT機器も競争が進み知恵を出せば更にコストの低い機器が登場しうるようにも思える。
技術がもう少し進めばもっと鮮明な画像が手軽に取れるようになるだろう、それだけで医療の無駄な検査の繰り返しは軽減され患者も少しは気楽な生活ができるようになるだろう、医療費もいくらか下がるだろう。技術が進歩して医療のコストを下げ医療のデフレを引き起こす必要があるのだろう。供給過剰気味の医院には倒産の圧力がさらに加わることになるかもしれないが。
デフレといわれようと倒産が増えようと無駄を省きコストを下げる努力はこの国には必須のことに思える。それを望ましいことと扱えない経済学ならそれは経済学の遅れというべきものなのだろう。まだまだ技術も経済学も、そればかりか学問という学問はすべからく未熟の塊なのだろう。
それだけ創造する喜びが人類の前途には広々と広がっているということのようで考えをめぐらしていくと楽しくなる。

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