筑豊の記憶
暑さもようやく収まりつつある。日没も随分早くなって夜が長くなってきた。
筑豊の田川の近くにちょっとした用があってその帰りに伊田にある炭鉱歴史博物館というところに寄った。世界記憶遺産となった山本作兵衛の炭鉱の絵が多く展示してあるらしいというので月曜だったが行ってみたのだが 恐れていた通り休みだった。博物館の周辺に色々炭鉱の遺物が
残されているのでせっかくだからと見てみて周ったがこれがいい。
幼い時の記憶では伊田駅は蒸気機関車が入れ替わり立ち代り黒い煙を吐きいかにも炭鉱の街という景色だった。頭の片隅に残っているのだが勿論今はそんな活気はどこにも無い。
大きな煙突が2本立っている、傍の説明板に旧三井鉱山伊田縦鉱の巻き上げ機の動力煙排出用だと書いてあるがそれに続けて炭坑節に歌われたのはこの煙突だとも記してもある、あれ、という感じがしないでもない。
小さいときから炭坑節というと月が出た出た月が出た三池炭鉱の上に出た と教わっていて伊田の炭鉱とは思ってもみなかった。この記述が正しければ最初は 三井炭鉱の上に出たと でも歌っていたのだろうか。
帰ってネットでみると最も詳しいとみられる炭鉱歴史博物館のページでは確かにそのように三井炭鉱の上に出たとなっているが他の普通のサイトでは、うちのお山の上に出た とある、更には三池炭鉱の上に出たとの歌詞を載せているサイトも未だにある。多分ここで始まったのがそれぞれの炭鉱の固有名詞に変えてそこで歌われていったのだろう、三池炭鉱が最後まで残ったんだろう。ここの煙突は1908年に作られているからかなり早い。炭坑節は伊田と後藤寺で本家争いがあった後伊田が本家と決着したとの記述もネットにある。しかしそんなことはお構いなしに幾つかの歌詞はどうしようもなく並行して流布され続けていく、それが言葉というものだろう、生き続けるということなのだろう、なんだか面白い。
この煙突なら月も煙たかろうと思うほどの立派な煙突だ、厭おうなしに未来に向かって栄えた過去を主張し続けている、しかしどこか空しい。このほか巨大な竪坑やぐらや蒸気機関車、炭鉱住宅なども保存されている、しかしあの活気は伝わってこない、おとなしい遺物でしかない。
筑豊というと子供の頃のイメージは菓子箱いっぱいの巨大な成金饅頭だった、どうだ、という主張があった。ほとんど無くなりかかっていたが近年復活してきているようだ。消えてしまう記憶遺産も多い。
使われなくなった固い固形物の遺産よりも巨大な成金饅頭や炭鉱節のような柔らかいもろい遺産の方が時代の雰囲気を伝え、むしろ生き残って形を変えながら未来を作ってくれるかもしれない、そんな気もしている。
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