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2013年10月31日 (木)

広島へのクルーズ

この3日ほど友人のクルーザーで福岡から広島まで海を旅していた。5ktくらいの速度だから一日100km走るのが精一杯だ。ヨットはまだまだ初心者故迷惑をかけないようにするくらいKaikou であまり役には立てない。それでも見張りをしたり舵を時折代わったりはして、風景を見ながらゆっくりと動く。
海の様子が刻々変わっていく。玄界灘は台風27号の余波は収まってきたとはいえうねりが結構ある。陸に沿って走るが島と陸の間には岩礁がそこここにあってこれも気になる、のんびりした雰囲気はあまり無い。関門海峡に近づくと大型貨物船が目立つようになる、衝突が怖くて後ろから来る大型船に航路を譲りながら狭くなってくる水路を進む。日没をやや過Dscn0675s ぎたところで宿泊地門司港のポンツーン(浮桟橋)にやっと到着する。楽しむというより安堵感の方が大きい。
船泊した翌日は風も波も収まるはずだが上関室津までの長いコースだ。
夜明けとともに東向きの流れに乗って関門海峡を突破する。
瀬戸内海に入ると予想通り風はゆるい東風だが正面の風ではセールは利用できない、エンジンで進むだけだ。昔はどうやって瀬戸内海を航行したのだろうといぶかしく思われてくる。風待ちばかりでは船は役に立たない。戻ってインターネットで調べてみると潮流が日に何度も変わるのも利用して前Suounada に進んだらしい。確かに関門海峡や大畠瀬戸では最大5ktくらいの流れが西向き,東向きと日に4回くらい向きを変える、流れを見定めておけば風の力を借りずとも結構前に進めるように思える。
関門海峡を押されるように過ぎて周防灘に入るがうねりが収まらない。風は収まっているし瀬戸内海は外洋のうねりが来にくいはずで少々変だ。聞くといつもこんな印象だという。うねりにしばらく悩まされた後 国東半島そばの姫島と防府近くの野島を結ぶラインを越えるといかにも瀬戸内らしい油をこぼし Suion2 たような穏やかな海になる。その落差がなんとも奇妙だ。関門海峡と野島―姫島ラインで囲まれた海域が閉じた海になっていて関門海峡から入ってくるうねりが反射しながらこの中で行ったりきたりしているように思える。野島―姫島から東側は四国の佐多岬を回って太平洋と安芸灘以東の瀬戸内とが連動しているようだ。衛星データでも野島―姫島の東と西では海面温度分布などでもはっきり差が出ていて異なる水域になっているように見える。内海は単純ではない。また一つ学ばされる思いだ。航行してみなくてはこんなことは実感できない。
それにしても日本では古くから、恐らく縄文の昔から大陸との往復は盛んだったように思える、しかし外洋の航行技術は蓄積されてきたはずなのに体系化して残されるということが無かったようだ。鎖国による渡航禁止と大型船の建造の禁止で日本は航海技術の伝承の多くを失ってしまったのだろうか、海に囲まれた国というのにDscn0689s 同じ環境の英国との違いはあまりにも際立っている。技術は政治で途絶えることがあるという歴史なのだろう。
見事な夕陽を背にやっとたどり着いた室津で一泊、翌日は米軍の立ち入り禁止水域が広がる岩国沖を過ぎ牡蠣いかだで埋められた宮島の海峡を進んでようやく広島に至る。
のんびりとかゆったりとかいう言葉がふさわしい旅ではない、興味深い旅としか表現しようが無い旅だ。
違った旅をすると違った時間を感じる。海をめぐる歴史と世界の多様さを考えさせられる。刺激的な旅だ。

広島から博多まで新幹線で1時間半で戻る、途中の小倉からはビジネス客がどっと乗ってくる。そこには別の時間がある。確かに我々は多層な空間に生きている、そんなことは当たり前なのだけれども、なんだか楽しい。

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2013年10月25日 (金)

我々はどこから来たのだろうか

台風がまたやってきている。28号の中心気圧が突然905hpになったといわれて、まさか,と思ったが、衛星写真を見るとやけに眼がはっきりしている、夕陽の頃の写真では眼壁の厚い雲に眼のエッジの陰がくっきり写っているほどだ、905hp、そうかもしれないと思ってしまT28 う。台風の中心気圧は今は主にドボラック法という手法で衛星写真パターンから判断されているはずだが、眼がくっきりしているパターンからT数(Tropical Number)が5.5でこの後2日発達してCI(Current Intensity Number)=7.5までなってその後発達していないということなのだろう。CIに応じた中心気圧と最大風速が早見表になっている。でも何だかアバウトだ。南海上にあるときはこのくらいの精度で十分ということでもあるのだろう。

数日前王塚古墳という遠賀川沿いの装飾古墳が秋の特別公開で古墳内の壁画を見せるというので出かけた。飯塚市南方の桂川というところにあって国の特別史跡になっている。筑豊から筑後川にかけては装飾古墳が数多くあOuzukaることで知られていて、昔から少しばかり興味があった。狭くて真っ暗な古墳の中で長時間火をともして絵を描くには危険が伴うだろう、それなりの石室の広さが無くては描けなかったのかもしれない、盛り土が完成する前に大半を描いておいたのだろうか、色々思 い巡らしてしまう。
入口で名前を書いて順番に入り説明を受けた後2重の厚い扉を経てガラス越しに石室の絵と対面する。石室は前室とその先の後室とからなっていて広い、壁画は概ね前室側に色々描かれていて、かすれかけた文様は今も不思議な印象を与えている。元々昭和9年(1934年)に偶然発見されその56年後の平成2年(1990年)になってやっと現在の保存設備が完成しており発見当時はもっと鮮やかだったようだ。6世紀のものだという。
この日内部が公開されている古墳が近くに幾つかあり王塚古墳から7km位北の川島古墳にも装飾古墳があるというのでこれも見てみる。こちらも厳重に保存されていて秋春の2回しか公開されない。壁画はこちらの方がまだはっきりしていて2人のDokyo 人物を中心に文様が描かれている。ここも6世紀だ、この年代は装飾古墳がブームだったのだろうか。大和朝廷が磐井の乱を鎮めてこの地へ影響を強めた時期ともいわれる。
このすぐ南の立岩遺跡からは2000年前くらいという甕棺の副葬品として立派な銅鏡や銅剣が出土している。歴史資料館で現物を見ると銅鏡の周りには漢詩が書いてあり漢時代の中国から持ち込まれたものらしい。前に見た甕棺群の金隈遺跡よりも時代が進んでいるように感じるが金隈は紀元前200年から紀元後200年とされていてピシッとしない。年代は出土品を中心に推定されているらしくて、どうにも古墳や遺跡の年代推定もアバウトなところが避けられないようだ。台風の気圧を衛星画像から推測する行為に近いものがある、概ね正しそうだが誤差はどうしようもない。 ともかく紀元0年の頃 甕棺を用いる半島経由の渡来人集団が北九州一帯に定着し一大勢力となっていったと思える。それが神武東征の伝説のもとになっていったのかも知れない。筑紫と大和の関係はどのように進んでいったのだろうか。もどかしさがある。

九州の地に来てみると我々はどこから来たのか、という問いへの答えにつながりそうなかけらにボロボロと行き当たる。この雰囲気は関東では感じることができない。

台風は思いのほか南にずれていった。台風が去ると北からようやく寒さの冬の走りが見えてくる時節になってきたようだ。

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2013年10月22日 (火)

通り過ぎてしまっていた名前に今また向き合う

ドゥルーズの解説本のような本が図書館の新書コーナーにあったのを見てつい借りてしまっDeleuze た。ドゥルーズ、ガタリの名は若い頃にしばしば眼にした、しかしついに触れずじまいになっていたのを思い出してのことではある。「ドゥルーズを活用する」という本だが読み出してみると当たり前のことが書いてある、此性(これせい)とか器官なき身体とか耳慣れない言葉が次々に出てくるが、説明を読むと自明のことだ。世の中はあれではなくこれ(これこれ、これだ!という時のこれ)で成り立っている。分化前のポテンシャルそのものが器官なき身体ということのようだ、器官なき身体がベースに横たわっている、当然のことだ。真実と仮想/虚構の妙なる関係 他、読めば読むほど現実の世界を表現しているだけだと分かってくる、歴史が示すとおり哲学は常に現実に一歩遅れている、難解な言葉の中に埋もれる哲学をもっともらしく解説している著者の大学教授の見下ろすような目線が軽薄な存在にも思えてくる。読み進むのが馬鹿らしくなってくる。目の前に展開する今の世界を自分なりに自分の仕方で理解していくことしか結局は無いのだと感じる。
手当たり次第に本を読むのはもう止めたほうがいいのかもしれない。
ゲルバーのコンサートがあってゲルバーの名前も久し振りに見るような気がして行ってみた、Gelber まだ昨日のことだ。ゲルバーはアルゼンチン出身のピアニストだがマルタ・アルゲリッチと全く同時代同じアルゼンチンのブエノスアイレスで育っている、この場所とこの時が特異点になっていたのだろうか、歴史の中にはそんなことが時々起こるようだ。
もう70歳も過ぎ、よれよれになっているかもしれないと案じていた。以前ホロビッツが晩年やっと日本に来たときはもうかなりの老境であの歯切れよい響きはテレビの中継でも全く消えてしまっていた、ゲルバーもあんな姿になっているのではないかと案じていた。最初の曲のベートーベンの「月光」が始まる、やたら重いしミスっているようでさえある、やはりか、と痛々しく思ってしまうが最終章から「情熱」に移っていくと次第に響いてくる。休憩を挟んだ後のショパンのソナタ3番、大ポロネーズとくると見違えるように軽やかに歌うようにしかも力強く伝わってくる、まだバリバリの現役だ。すごい。
時間が持てるようになって以前通り過ぎてしまっていた名前に今また向き合いたくなっている、まだ理解し感じるに間に合うようだ。まだ遅すぎるということは無いようだ。よしんば遅すぎる現実に行き当たってもそれを丸ごと受け入れればいいだけのことだろう。
いまだに新しい生き方を探っている、ずっと探り続けるだけかもしれない。それも面白いと思っている。

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2013年10月18日 (金)

ラオスでATR72が墜落

ラオスの南部パークセー付近でラオス国営航空(Lao Airlines)のATR72が墜落した。報道では台風が近くを通り気象条件がよくなかったためではないかとされる(ラオス航空副社長の発言)。2013年10月16日現地時間16:10頃(09:10 GMT)事故は起こっている。
機体は今年3月製造されたばかりの新鋭機で機体に問題があったとは考えにくい。
気象について調べると、確かに台風25号崩れの低気圧がラオス北部を数時間前に通過しているが、現地天気は前後のMETAR,衛星写真や天気図、GSM計算値を見る限りでは 3m程度の南西風2013101609ame で雨は殆ど無いか霧雨程度で、事故が起こるほど悪天候とは思えない。視程も8-10kmはあって、それなりに見えていたようだ。(添付は事故の起こった時間帯の雲画像と1時間雨量分布、JAXAによる)。或いは山岳の影響によるウインドシェアがあったのかもしれない。取り敢えずの感想はこれくらいの気象で墜落するようでは少々危なっかしいエアラインかなということになる。機体すら回収されていない状況であっさり気象のせいときめつけずにより突っ込んだ事故調査がなされることを期待するばかりだ、無理かもしれないが。
乗客の国籍が興味深い。44名搭乗していて全員死亡だが、ラオス人17名の他は外国人でフランス 7名、オーストラリア 5名、タイ 5名、韓国 3名、ベトナム 2名、それに米国、カナダ、マレーシア中国人、台湾 各1名 となっている。ビエンチャンからの飛行だった。
各国の興味が何らかの形でラオスへ向かっている状況が明らかだ。日本人がいなかったのは出遅れているということだろう、本土の中国人がいないのはいささか不思議な気もするがラオスが次第に中国から脱しようとしているということかもしれない。
ビルマが民主化へ走り、残るはラオスか、ということだろうか。
内陸の解りにくい国に事故が光を当てる、こんなタイミングで起こる航空事故には歴史的に何か意味があるように思えてしかたがない。

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2013年10月15日 (火)

今年の冬はどうなるか

台風が次々にやってくる。西太平洋の海面温度が平年より0.5度から1度くらい高いのが直接原因だと考えられるが何故西太平洋の海面温度が高くなっているのか、明快な説明は探しても見つからない。IPCCのわかりにくい解説を待つまでも無く幾つかの原因で地球温暖化は進んでいるようで、その一端がこのような形で現出していると考えるのが素直なのだが、東太平洋は例年より冷たくなっていて、単純ではない。
Saikuron 台風25,26号と時を同じくしてインド洋ではサイクロンが発生しており、熱帯の渦巻きができやすい状態はインド洋までつながっているように見える。単純な物理現象のはずの気象がどうなっていくか未だに理解するのが難しい、人知の及ぶ限りはまだまだ幼稚なものだ。

今年の冬はどうなるか。9月の北極の氷は昨年よりは大分広くて去年のように大量の冷たい水が北極から流れ出している訳でもないようで、今年の冬は例年並みの寒さと見るべきだろう。エルニーニョ、ラニーニャの動きもニュートラル付近で推移しそうでこちらも例年並みの冬を示唆している。

大雪と関係が有るらしいツバメの南下はどうだったのだろうか、ネットには昨年よりは遅いという書き込みもあり、どうやら今年の冬の雪は平年並みという線のようだ。

ツバメの南下の記録は気候変動ウオッチングの指標として系統的に記録すべきことのようだが今のところそのような努力はなされてはいないように見える。自宅にツバメが巣を作ってくれれば記録もとれるのにと思うが願いは今のところかなっていない。

カワラヒワがこのところ家の周りで鳴いている、戻ってきたようだ、暑い夏の間は涼しいところへ逃げていたのだろう。確実に季節は巡る。結局はDNAの中で生き続ける命であっても今しかない時間が言いようもなく心地よく流れている。こんなのもいい。

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2013年10月 9日 (水)

中途半端でない生き方は幻想に過ぎない

目を片目ずつ2週に渡って手術して感染防止のため水泳やヨットを禁じられたこともあって、やや運動不足だ。気晴らしに例によってやりたい事を一つずつつぶしている。今回は焼物つくりだ。
茶の湯に興味があって時々自分流にお茶をたてているが茶碗がどうにも面白くない。新たに買えばいいのだが、品物を見たりネットで見たりするとこれはというものは恐ろしく高い。こんな時は自分で作るのが一番と、上野(あがの)焼の窯元で作らせてくれるところを見つけて出かけた。
陶芸教室自体は自宅から歩いてすぐのところにもあるが費用もそれなりにかかるし毎週のように作り始めると家中焼物だらけになりそうな気がしてまずはとにかく一つでも作ってみようと気楽にしかし本格的に体験できるところとした。
八木山峠を越えて飯塚から北上し直方の近くにある福智町上野というところに向かう。上野焼は江戸時代中期の茶人小堀遠州が選んだ遠州七窯の一つで茶器では全国的に名が知Agano2 られている。
到着は予約の時刻にはやや早かったが丁度先客が終わったところでもあり直ぐに始めることができた。上野焼中村真瑞窯という。ろくろを回すのは全くの初めてだがマンツーマンで手取り足取りの風情で教えてくれる、費用の割には随分親切だ。
水を切らさないこと、手の位置を変えないこと、厚みを一定にしながら薄くして行くこと、あたりがコツといえばそのようだが何度もやって見る他ない。茶器用の茶碗はやや大きくてなかなか思うようにはいかない。何とか5つばかり作ってみて一つだけ選んで焼いてもらうこAgano とにした。釉薬がけはやってもらう事になる。窯出しは11月上旬で先のことだが楽みだ。上手くできそうならまた作ってみるかとの気もしている。焼物つくりは自分の中でどう展開していくだろうかとそれが面白くもある。
暫くはまっていた日光彫はもう一年以上やっていない、福岡で材料を求めて続けていくのは容易くないし彫っても塗りは栃木まで送るわけにもいかずここでなんとかしなくてはならない、やりたいことが他にも色々あってなかなか手が回らない。続けていくことは簡単ではないと思い知らされている。
全てが中途半端に終わるかもしれない、しかし土台中途半端でない生き方なんてそうそうあるものではない、そんな生き方は幻想に過ぎない、そう言い聞かせながらあれこれ手をだしている。
2日ほど前ウイーンフィルのコンサートマスター、シュトイデルのバイオリンコンサートを聴きに出かけた。上手すぎる。上手すぎて何処か伝わらないものがあるようにさえも思う。上手くなくても自分にだけでも伝わるものができればそれでいい、そう思って絵も描いているし俳句も作っているし写真も撮っているし日光彫もそうだった。
時が足りない、仕事を離れて十分な時間を持っているはずだが、いまだにそう思っている。ずっとそう思い続けていくのだろうか。もう秋も深まりを見せてきた。

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