通り過ぎてしまっていた名前に今また向き合う
ドゥルーズの解説本のような本が図書館の新書コーナーにあったのを見てつい借りてしまっ
た。ドゥルーズ、ガタリの名は若い頃にしばしば眼にした、しかしついに触れずじまいになっていたのを思い出してのことではある。「ドゥルーズを活用する」という本だが読み出してみると当たり前のことが書いてある、此性(これせい)とか器官なき身体とか耳慣れない言葉が次々に出てくるが、説明を読むと自明のことだ。世の中はあれではなくこれ(これこれ、これだ!という時のこれ)で成り立っている。分化前のポテンシャルそのものが器官なき身体ということのようだ、器官なき身体がベースに横たわっている、当然のことだ。真実と仮想/虚構の妙なる関係 他、読めば読むほど現実の世界を表現しているだけだと分かってくる、歴史が示すとおり哲学は常に現実に一歩遅れている、難解な言葉の中に埋もれる哲学をもっともらしく解説している著者の大学教授の見下ろすような目線が軽薄な存在にも思えてくる。読み進むのが馬鹿らしくなってくる。目の前に展開する今の世界を自分なりに自分の仕方で理解していくことしか結局は無いのだと感じる。
手当たり次第に本を読むのはもう止めたほうがいいのかもしれない。
ゲルバーのコンサートがあってゲルバーの名前も久し振りに見るような気がして行ってみた、
まだ昨日のことだ。ゲルバーはアルゼンチン出身のピアニストだがマルタ・アルゲリッチと全く同時代同じアルゼンチンのブエノスアイレスで育っている、この場所とこの時が特異点になっていたのだろうか、歴史の中にはそんなことが時々起こるようだ。
もう70歳も過ぎ、よれよれになっているかもしれないと案じていた。以前ホロビッツが晩年やっと日本に来たときはもうかなりの老境であの歯切れよい響きはテレビの中継でも全く消えてしまっていた、ゲルバーもあんな姿になっているのではないかと案じていた。最初の曲のベートーベンの「月光」が始まる、やたら重いしミスっているようでさえある、やはりか、と痛々しく思ってしまうが最終章から「情熱」に移っていくと次第に響いてくる。休憩を挟んだ後のショパンのソナタ3番、大ポロネーズとくると見違えるように軽やかに歌うようにしかも力強く伝わってくる、まだバリバリの現役だ。すごい。
時間が持てるようになって以前通り過ぎてしまっていた名前に今また向き合いたくなっている、まだ理解し感じるに間に合うようだ。まだ遅すぎるということは無いようだ。よしんば遅すぎる現実に行き当たってもそれを丸ごと受け入れればいいだけのことだろう。
いまだに新しい生き方を探っている、ずっと探り続けるだけかもしれない。それも面白いと思っている。
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