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2014年1月23日 (木)

印象派展にて

図書館に行ったついでに隣の博物館で印象派の美術展が始まったのを思い出してまわってみた。タイトルは「光の賛歌 印象派展 パリ、セーヌ、ノルマンディの水辺をたどる旅」という。 何は無くInsyouha とも印象派という安直な企画かと大して期待もしていなかったが本物の名画に1点でもめぐり合えばこのところ筆の進んでいない油絵にも役に立つかもしれないとの思いがあった。
見始めると安直とは次元の違う力がこもった展示だと感じさせる。まずはモネ、シスレー他名の知れた画家の作品数が多いのに驚かされる、圧倒的数といってもいい、また世界各国の著名な美術館から借り出しているのにも何か執念のようなものを感じる。東京富士美術館の30周年記念イベントが巡回してきたと後で知ってそういうことならこの力みもあるかと思ってしまう。福岡の後は京都文化博物館にまわることになっているようだ。
19世紀後半のフランスといえば、レミゼラブルの時代の直ぐ後だ。ナポレオン3世が普仏戦争を起こしパリコミューンに至る動乱の時代だ。そんな時代に穏やかな印象派の風景画が数多く描かれていたことになる。特にモネが多い。雲、水Senu の描き方に興味が引かれる。見ていくと刻々と変わる雲・水を描くにはパターン化された描き方 を幾つも持っていて即座にそれに当てはめながら描いているように思えてくる。その場その場で違うところを見ながら描いたのだろう、数を描かないとこれはできそうに無い。
風景は大体が登場する要素が多くてその場で絵を描ききることは難しいように思えていた、スピードが必要だ。次々に現れる風景画はとにかく描ききっている、表現の要点を即座に捉えているようだ。テクニックには学ぶところが多い。
見終わって思い直すEtorutaと何故か感動が無い。年をとったためだろうか。描く技術へのこだわりを前面に感じてしまうからだろうか、或いは時代の雰囲気がどこかフィルターされているように感じるためだろうか。そもそも風景画というものは感動して伝えるという要素が薄いのだろうか、そんなことも考えてしまう。
感動といわず淡々とした空気のような存在、光のような存在、結局はそれしかないのかもしれない、その存在そのものを描ければ十分というべきなのだろうか、そんなことをつらつら思いながら館を後にした。外には陽光が満ちていた。

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