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2014年2月26日 (水)

ネットで申告、ネットで登記

数年前から確定申告をインターネットで行なっている。複雑なページで途中で解らなくなるとかなりいらいらするがともかくネットだけで完結して払い過ぎ分がすんなり指定口座に入金Densiseifu される。やり遂げるとこれがいいと毎年思える。かなり集中力がないとやり遂げられないし、準備もやや手間だが面白いと言えばそれも面白い。1月半ばから始められるので申告用の書類が色々なところから送られてきて出揃ったころに今年も始めた。

住基カードをICリーダーに乗せてe-taxのページから手順を始めると電子証明書が無効ですとくる。怪訝に思いつつ少し調べると地域の役場が発行するもの故引っ越すと無効になると解って慌てて区役所に出向いて電子証明を申請し住基カードに書き込んでもらう。準備が整うと今年も何とか2晩ほどで終わった。添付書類は大抵が送付不要で楽なのだが今年は珍しく送付必要書類が1点だけ出て、別途税務署に郵送する。機械的で大した負担でもない。1-2週間くらいで還付金が振り込まれる、なかなか便利なシステムだ。途中で解らなくなると電話で問い合わせることができるがパソコン操作以外は結局は担当税務署に当たってくださいとなる、それでも随分いい。

味を占めたというわけでもないが、暫くほっておいた自宅の登記の登録者住所変更もパソDensitouki_2 コンで出来るのではないかと始めた。こんなことは元来住民票の変更に連動してなされるべきのように思えてならないのだがこれがお役所仕事なのだろう。勿論手数料をそれなりに払い込まねばならない。こちらはe-Taxより更に解りにくい。何とか手順に従って最後まで行ききる。途中で手数料納付も銀行振り込みで出来るよう枝分かれがあって、銀行口座からネットバンキングで振り込むと納付完了の表示が出たりもする。

住民票は住民票コード番号を入力すれば別送しなくともよいとあるのでそうして先へ進め申請手続きを完了させる。ところが翌日法務局から電話があって住民票コードからは転出元住所が確認できないので申し訳ないが住民票を送ってくれとの依頼が来る。一種のバグのようだ。このループは殆ど使われていないのだろうか、早速送ると翌日には丁重なお礼電話が留守録に入っている。あまり利用する人も無いのだろうかと思ってしまう。程なく登記書類が電子的に送られてきて手続きは完了した。

すこしづつ前に進んでいる。住みやすい世の中にしようと言う努力が見えるのがいい。
お役所仕事を嫌なのは本当はお役所の人なのだろう。

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2014年2月22日 (土)

曽根干潟と響灘ビオトープ

庭の梅も散り始めて寒さもそろそろ終わりに来たようだ。
香春町にちょっとした用事があってそのついでに前から気になっていた曽根干潟と響灘ビオトープを巡ってみることにした。曽根干潟は周防灘に面した干潟で北九州空港のすぐ北にある。

香春町から新仲哀トンネルを抜けて行橋に至りそこから少し北上するのだが、トンネルの名前となっている仲哀という文字が気になって戻って調べるとやはり古事記・日本書紀に登場する仲哀天皇に由来している。神功皇后の夫でありともに九州に赴いて熊襲征伐をしたその折にこの峠(仲哀峠)を越えたという言伝えによるようだ。確かにここは古くから瀬戸内と筑豊/筑紫Sonehgtを結ぶ重要ルートで近くには古代山城遺跡である神籠石も遺されている。北部九州は古事記・日本書紀の大舞台になっていたと思い起こしてしまう。

行橋を過ぎて程なく曽根に至る。干潟訪問では駐車場所がいつも不安になるがここもネット 上では駐車場は無いとなっている。干潟への川沿いの道を海に向かってとにかく進む。今津干潟周りの道より大分広くて余裕があり何とかなるだろうとの感じを与える。堤防に突き当たったところSonehgt2のちょっとしたスペースに車を停める。満潮を過ぎてしばらくにあたり引き潮でみるみる波打ち際が後退していく。ツクシガモが多い。チュウシャクシギの集団も彼方に見える、遠いがスコープで何とか判定できる。クロツラヘラサギも3羽見える。何故かカラスが干潟に 多いがズグロカモメやセグロカモメなどカモメも多い、しかしとにかく遠い。干潟らしいと言うべきなのだろう、訪れるならぴったり満潮の時がいいのではないかと思われてくる。

それでもかなり堪能して響灘ビWakatoohオトープへ向う、北九州都市高速道経由で渋滞は特になくスムーズだが思ったより遠い。若戸大橋を本当に久し振りに渡って若松の埋立地エリアにたどり着く。関門海峡から西の北九州市に面する海域を響灘と呼称しており、今は海辺に風車の列が目立っている。この一角に目的のビオトープがある。工場や人工物に囲まれて自然環境がビオトープとして維持されている印象だ、渡良瀬遊水地のように開放的ではなくちょっと息苦しい。
元は廃棄物処分場だったらしい、広い空き地が残って葦原となり野鳥が来るようになったとの風情だ。施設は新しくHibikibt21年半前に開設されたようだ、ネイチャーセンター近くに2-30分でまわれる位の遊歩道が設置してありそれ以外には立ち入れない。タカサゴモズが来ているらしいしツリスガラも時折姿を見せるらしい、掲示してあるここで撮った写真ではその他珍しい鳥が色々来るようだ、場所がいいのだろうか。とにかく周ってみる。風が強くて鳥見にはあまり向かない日だがこんな時にはチュウヒが予想通り現れる。その他草むらからヒバリのような鳥が時々飛び去るが風が強くHibikibtて素早くて良く見れない。一回りして珍しい鳥には出会えなかったがチュウヒが見れてまあいいかと引き上げる。帰りは3号線を使って香椎から福岡都市高速に乗って2時間くらいで帰り着く、わざわざ出向くにはちょっと遠い距離だ、出向くなら大授搦のほうがまだ近くて良さそうか、と思ってしまう。

散ってしまわないうちにと庭の梅の絵を描き始めた、自然と付き合うのは野鳥であれ庭の花であれままならない、思い通りにならないところがいいのだろう。時は流れていく。

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2014年2月14日 (金)

太宰府の飛梅が

庭の白梅が8分Umeuchiがた花開いた。太宰府天満宮の飛梅もそろそろ見頃かと有明海への鳥見の途中に立ち寄ってみた。
遠来の客人の観光にかこつけての訪問だ。太宰府のような地元の有名な観光地には却って行きそびれてしまう気がしてこんな機会は貴重だと思えた。この前訪れたのは息子と初詣に行った時でもう随分前だ。

日曜ではあるが初詣のような混雑では勿論ない。参道から左へ折れる辺りから白梅や紅梅が次々に現れるが、殆どの木が2-3分で見頃にはまだ2-3週位はかかりそうだ。予想外に遅い。自宅の梅は8割がた花開いているのにだ。やはり少し内陸だけあって寒いのだろTobiume うか。きらびやかな山門を抜けると本殿とその右に飛梅が見えてくる。よく咲いている、早咲きの品種のようだ。菅原道真をしたって京都から飛んできたとの伝説の木だが見ると幹も普通の太さで恐らくは何代目かと思えた。
戻ってネットで調べ直してみると樹齢1000年と言われているようだ、Wikipediaや観光ガイドのページにそうある、正に道真が見た木と言うことになるが見た目と感じが違うので更に調べると福岡市のページに樹齢150年、10代目にあたるとある、どうやらこのあたりが本当らしい。種か挿し木で命をつないだのだろう。同じ場所でDNAを継ないでいるのならそのものと思ってもそう間違いでもない。樹齢千年と言う俗説をただすこともなく伝説を実直に神社が支えている姿がそこにあるように思えてくる。

少し前 天拝山に登ったことがある、太宰府から南西に5kmほどにある低山だ。この山に道真はしばしば登り都を恨んだと伝えられる。山道には道真がそのとき詠んだという歌が点々と掲げられているが、とても学問の神といわれるほどの高尚な人とは思えない恨みつらみに満ちた歌ばかりだ。しかし人間らしくてこれが本当のようにも思える。
伝説と本当の姿が上手く伝わっているのが太宰府の魅力かもしれない。
太宰府は大和朝廷が大宰府政庁をおく前から都として機能していたとの説がある。九州王朝の都であったという説だ。九州王朝説には一定の真実があるように見えるが相当に膨らませてある部分も感じる。こちらの本当の姿は当分明らかになるまい、幻想が立ち込めている趣がある。
その辺も太宰府の魅力かもしれない。

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2014年2月13日 (木)

雲仙島原が重くて

諫早の干拓地に鳥を見に行ったついでに雲仙に宿泊して雲仙島原を観光した。福岡市から諫早日帰りはきつくてどうしてもこうなってしまう。
天気がいいのは初日だけと解っていHeisesz たので予定を変更して初日の諫早干拓から引き続いて夕刻の雲仙岳を散策する。仁田峠からアザミ谷と呼ばれる普賢岳への小道をぶらぶら歩いていると正面に平成新山が良く見える。平成元年の11月から始まって平成3年には溶岩ドームを形成、大きな火砕流事故を起こしたあの平成の噴火によってできた新しい峰だ。うっすらと白い煙を吐いており今も活動しているようだ。見下ろせば島原の町に向った火砕流の跡がはっきりとみえる。あたりの樹木を見渡すMomi と枯れ木の大木が点々と目に付く。モミの木のようだ、噴火の時にやられたらしい。火山と人が正面から向き合うことは難しそうだ、とてもかなわない。
翌日原城跡を訪れる。島原の乱の現場だ。復元された島原城とは違って石垣のみだ。今回の旅行に際して調べるまで島原城と原城を同一と思っていた、とんだ間違いだった。幼い時の記憶には誤解が色々ある、悲惨な過去を表に出したくないという島原の人の気持ちがその様な誤解に至ったのかもしれない。天草・島原のキリシタン3万数千人が原城に立てこもってHarajyouhone 赤子に至るまで全てが惨殺された。キリシタンは復活するとの噂から切り刻まれたとの話もある。近年原城跡の発掘調査がなされたが濠跡から夥しいばらばらの遺骨が発掘されて一部が資料館に展示してある。
想像していたより遥かに規模が大きい城だ。乱当時廃城となっていたものを占拠して篭城したらしい。ここなら3万を越える人員を支えられるだろう。有明海に面した堅固な城で幕府側も多くの損害を出しついにはオランダ船に城砲撃を依頼したとも言われる。城跡を歩き回っていると重い気分になってくる。
Kasaryuk 気を取り直して、取り敢えずは昼食とばかり道の駅に入ると敷地内に島原噴火で起こった土石流で埋没した家屋がそのまま何軒も保存してある。軒まで土砂に埋まった姿に驚くばかりだ。食事の後火砕流の記念館「雲仙岳災害記念館」に向う。
随分と立派な建物だ、復興予算の一部が使われたのだろうか。平成3年の大火砕流の記録が克明に展示してある。報道のテレビカメラの残骸が生々しい。繰り返し映し出される映像は次第に心を暗くする、必要な記念館だが少々つらい。
Mayuyamard 記念館を後にして眉山ロードと呼ばれる火砕流の後に沿った新しい道路を走ってみる。報道関係者が多くの被害を出した定点と呼ばれた地点のそばを通っているはずだがどこだかわからない、流れ下った火砕流のあとの土砂が一面だ。確かに生活は戻ったが自然の力の圧倒的な大きさを感じてしまう。東北大震災の被災地の復興がはかばかしくないのもこの圧倒的な自然の力が押し寄せたからだろうか。荒涼とした風景を眺めているとまた心が重くなる。
島原半島の北を回って再び諫早湾に戻る、今度は注目の潮受堤防を走ってみる。殆どが土塁のしっかりと根付いたつくりで今更どうしようもない。堤防の内側には新しい自然が広がり堤防の外側にもキンクロハジロの群れが見えたりして新しい環境に対応している自然の姿が見える。この位の人為的な変動は何ほどのこともないと言っているようだ、確かに自然の圧倒的な力を見せ付けられた目にはこんなもので自然が破壊できるわけも無いと思えてしまう。あと何十年か経つと堤防の外側にまた干潟ができるのだろう、すべてを飲み込んでしまうような自然が姿を現すのだろう。自然に翻弄される人の争いにここでも心が重くなる。
諫早雲仙の旅は鮮烈なという言葉しか浮かばない旅だった。日々の平穏の裏側にあるものを見てしまった思いがする。もっとやわらかい季節にまた来ようか。

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2014年2月 3日 (月)

ジョンハンター

ジョンハンターという人の生涯を記した本をなんとはなしに図書館から借りてきて読み始めたが、次第にひきこまれていく、『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』という本だ。18世紀イギリスの解剖外科医の話だが、西欧の医学もこんなものだったかと改めて認識させる。日本では杉田玄白らが刑場の腑分けに立ち会ってオランダ医学書ターフェルアナトミアの翻訳を始め日本の蘭学をスタートしたまさにその時期にあたる。
当時英国では(恐らく西欧の一般的状況として)解剖に基ずく理解はあったものの内科医の治療は古代ギリシアから殆ど進んでおらず瀉血と怪しげな投薬を柱とする治療で実効は疑われる時代にあった。外科医は床屋と同列で内科医の一段下で瀉血の実施や足の切断等を担当しており科学的医療とは遠い世界にあった。ただ人体の仕組みを追求する努力は進められており、墓を掘り返して盗んででも死体を集め解剖が盛んに行われていた。そんな時代に、人体解剖に異様なほどに深くのめり込み人体の仕組みに従う外科的治療法を科学的に確立して行ったのがジョンハンターだった。彼は動物の解剖も広く行いダーウィンの進化論以前に生物が進化するという概念を解剖学的に掴んだとも言われる。時代の先を走る人は常に異端として排斥される。彼も執拗な攻撃に晒されたようだ。
明治維新は西欧の産業革命や科学技術の進歩がこのままでは世界において行かれてしまうと日本人に危機的に思わせるほどにまでなった時に引き起こされたと見るべきかもしれない、そんな意味ではこのジョンハンターも明治維新に至る長い長い導火線に火をつけた一人ともいうことができよう。
時代をジャンプさせるのはまさにピッタリのタイミングで出現し異常とも言える力を発揮する個人でしかない、こんな例を見る度に思わされる。
フランス大革命の四年後、ジョンハンターは65歳の生涯を閉じる。時代は動乱の時代に突入していた。

こんな人がいたとは全く知らなかった。未だに知らないことに毎日のように行き当たる。世界はどこまで広がっているのかと追いかけながら時間は尽きて行くのだろうか。知らないことで満ちていることそのものがエネルギーかもしれない。空虚の中に膨大なエネルギーがあるというのが宇宙の始まりと同じようで 考えを遊ばせて行くと こんな風に宇宙と一体の自分を感じてしまうのも面白い。

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