雲仙島原が重くて
諫早の干拓地に鳥を見に行ったついでに雲仙に宿泊して雲仙島原を観光した。福岡市から諫早日帰りはきつくてどうしてもこうなってしまう。
天気がいいのは初日だけと解ってい
たので予定を変更して初日の諫早干拓から引き続いて夕刻の雲仙岳を散策する。仁田峠からアザミ谷と呼ばれる普賢岳への小道をぶらぶら歩いていると正面に平成新山が良く見える。平成元年の11月から始まって平成3年には溶岩ドームを形成、大きな火砕流事故を起こしたあの平成の噴火によってできた新しい峰だ。うっすらと白い煙を吐いており今も活動しているようだ。見下ろせば島原の町に向った火砕流の跡がはっきりとみえる。あたりの樹木を見渡す
と枯れ木の大木が点々と目に付く。モミの木のようだ、噴火の時にやられたらしい。火山と人が正面から向き合うことは難しそうだ、とてもかなわない。
翌日原城跡を訪れる。島原の乱の現場だ。復元された島原城とは違って石垣のみだ。今回の旅行に際して調べるまで島原城と原城を同一と思っていた、とんだ間違いだった。幼い時の記憶には誤解が色々ある、悲惨な過去を表に出したくないという島原の人の気持ちがその様な誤解に至ったのかもしれない。天草・島原のキリシタン3万数千人が原城に立てこもって
赤子に至るまで全てが惨殺された。キリシタンは復活するとの噂から切り刻まれたとの話もある。近年原城跡の発掘調査がなされたが濠跡から夥しいばらばらの遺骨が発掘されて一部が資料館に展示してある。
想像していたより遥かに規模が大きい城だ。乱当時廃城となっていたものを占拠して篭城したらしい。ここなら3万を越える人員を支えられるだろう。有明海に面した堅固な城で幕府側も多くの損害を出しついにはオランダ船に城砲撃を依頼したとも言われる。城跡を歩き回っていると重い気分になってくる。
気を取り直して、取り敢えずは昼食とばかり道の駅に入ると敷地内に島原噴火で起こった土石流で埋没した家屋がそのまま何軒も保存してある。軒まで土砂に埋まった姿に驚くばかりだ。食事の後火砕流の記念館「雲仙岳災害記念館」に向う。
随分と立派な建物だ、復興予算の一部が使われたのだろうか。平成3年の大火砕流の記録が克明に展示してある。報道のテレビカメラの残骸が生々しい。繰り返し映し出される映像は次第に心を暗くする、必要な記念館だが少々つらい。
記念館を後にして眉山ロードと呼ばれる火砕流の後に沿った新しい道路を走ってみる。報道関係者が多くの被害を出した定点と呼ばれた地点のそばを通っているはずだがどこだかわからない、流れ下った火砕流のあとの土砂が一面だ。確かに生活は戻ったが自然の力の圧倒的な大きさを感じてしまう。東北大震災の被災地の復興がはかばかしくないのもこの圧倒的な自然の力が押し寄せたからだろうか。荒涼とした風景を眺めているとまた心が重くなる。
島原半島の北を回って再び諫早湾に戻る、今度は注目の潮受堤防を走ってみる。殆どが土塁のしっかりと根付いたつくりで今更どうしようもない。堤防の内側には新しい自然が広がり堤防の外側にもキンクロハジロの群れが見えたりして新しい環境に対応している自然の姿が見える。この位の人為的な変動は何ほどのこともないと言っているようだ、確かに自然の圧倒的な力を見せ付けられた目にはこんなもので自然が破壊できるわけも無いと思えてしまう。あと何十年か経つと堤防の外側にまた干潟ができるのだろう、すべてを飲み込んでしまうような自然が姿を現すのだろう。自然に翻弄される人の争いにここでも心が重くなる。
諫早雲仙の旅は鮮烈なという言葉しか浮かばない旅だった。日々の平穏の裏側にあるものを見てしまった思いがする。もっとやわらかい季節にまた来ようか。
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