« 5月になって | トップページ | 現実と夢の境目がゆっくりとぼやけてくるようで »

2014年5月 2日 (金)

山で生きていく話

アケボノツツジを見に行ったついでに通潤橋によって更についでに五家荘に寄った。予備知識はほとんどない。平家の落人村があるのだろうといった程度だ。

御船町から南に曲がり国道445号線を走る。山に差し掛かると普通の2級国道が急に離合困難な両側あわせて1車線の山道に変じる。おまけに崖っぷちを曲がりくねって延々と登りが続く。一瞬も気が休まる時Map がない。時折前から車が来る。急ブレーキで離合できるところに下がって切り抜ける。こんな道は走ったことがない。国道とはまったく思えない。しかし苦しい道にも終わりは来る。突然二本杉峠という広い所に出る。標高1100mだから九州の峠としてはかなり高い。ここから暫くは国道らしいゆったりした片側1車線の下り道に変わる。しかし楽な道にもやはり終わりが来る。10km位でまた曲がりくねった両側で1車線の道に戻る。なんということだ。そのうちT字路になり左平家の里との手書きの道標が現れるが左はもっと怪しげな道に見える。ナビでは右と出て右へ行く。取りあえずは五家荘の観光案内所が目標地としてある。
やや暫くあってナビに従って左に曲がる、やはり同じような細い山道だ。こんな所に人が住めるのだろうかと思っている頃人家が現れる、人がいる。何をして生活しているのだろうか。更に暫く進むと目的地のあたりに到達する。観光案内所はあるにはあるが休みのようだ。手前に1軒お食事どころの看板があるのでちょうど昼だと覗いてみる。こちらも人気がない。お願いします、と声をかけてみると横から年配の女性がゆったりと現れて、食事はできるという。蕎麦を頼んで待つ。どこかで作っているようだ。出てきた蕎麦はいかにも手打ちのぶつぎれで上に肉の揚げたのが載っている、獣くさい。食べてみると鹿か猪だ、お店で売っている肉とは思えない、ここらで取れるものばかりで作っているようだ。確かにここは秘境だ。
Goka 奥深い山地に点々と在る人家というのが五家荘の実態のようだ。

観光用の作り物のの平家の里も見てみる、こんな所にこんなものをどうやって作ったのだろうと思うほどだ、しかし何の感慨も沸かない。
戻ってここは何なのだろうかと調べてみてやっと解ってくる。
五家荘には平家の落人の末裔という一族が緒方氏として残っておりこれとは別に菅原道真の末裔という一族が左座(ぞうざ)氏として残っているという、1000年もの間ということになる。俗世との行き来をなるべく絶って住み続けてきたようだ、確かにその雰囲気はあの蕎麦にあった。
しかしなんだか腑に落ちない、菅原道真の子息が落ちのびなけねばならぬほどだったのだろうか。
平家の隠れ里の言い伝えには色んな綾があるようだ。柳田國男は木地師集団が山に篭って生き続けていた、この集団は作り話がうまくて平家の落人の話も各所で作り話を伝えていたらしい、とも述べているようだ。確かに前の晩に泊まった五ヶ瀬の宿は木地屋との屋号だったし、ネットで調べても五ヶ瀬には明らかに木地師がいたらしい。木地師は山に住んで木のお椀などを作って里人に売って僅かな収入を得たという、学もあった。時折着るものを買う程の僅かな収入があれば山中で生きながらえることは十分可能のようだ。

柳田國男の著作の中には山に迷い込んで山で生き続けた人の話がいくつも出てくる。何年も過ごしていると着るものは殆ど(損耗して)なくなるが食べていくには困らないようだ。こんな人たちが山には何人もいて里人が山に入ると時々遭遇した話がいくらもあったようだ。工事の人夫として雇ったなどという話もある。もちろん女性もいる。山で追いはぎにあうなどという話も着るものを手に入れるため行われた行為だったのかもしれない。

そんなんだから山には山の別の世界があり続けた、これが明治頃までの日本の姿だったようだ。

勿論五家荘は本当に平家の落人だったのかもしれない、言い伝えには真実味がある、しかし今となっては作られた話も本当の話も区別がつかない。歴史とはそのようなものなのだろう、存在が確認されることの意義は気休めでしかない、本当の歴史は次第にその存在の意味を失っていくのではなかろうか。今そう思えばそれが真実なのだろう。

また知らない世界に遭遇したようだ、生きていく限りこうなのだろう。

|

« 5月になって | トップページ | 現実と夢の境目がゆっくりとぼやけてくるようで »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 山で生きていく話:

« 5月になって | トップページ | 現実と夢の境目がゆっくりとぼやけてくるようで »