柳川に遊ぶ
晩秋らしく晴れて乾いた陽気が日々を支配している。3日前の朝、シロハラが自宅の玄関先で死んでいた、渡ってきたところで勝手がわからず軒先にでも激突したのだろうか、チェーホフのカモメを思い出す。何かを象徴的に表しているような気がしてくる。ノゴマが公園に現れたとの報すらあり鳥の動きも日を増して忙しくなる。
人も動きたくなるようにできているのかどこかと柳川の地へでも訪れてみたくなった。
柳川は幼い時に父に連れられて何度か訪れたことがある、その遠い記憶がどこかに刻み込まれているのだろうか。もう55年位前のことになる。
お花という料亭のような所に行って仕切られた間で食事をする、それだけのことであったが随分と混んでいたようにも覚えている。
お花とは何であったのか、柳川とはどんな所であったのか、川下りがよく知られているようでこれもどんなものか、空いている平日に行けばのんびり出来るかもしれないとの気分もあった。
お花に川下りとウナギせいろ蒸しの予約をして出かける。お花とは柳川藩城主であった立花氏の別邸で明治時代の建物だ、明治には伯爵の地位にあって庭は国指定名勝となっている。この前筑豊で見た石炭王伊藤伝右衛門邸と比較してしまうがどうみてもこちらの方が立派に見える。伊藤伝右衛門はそれなりに優れた人物であったようだがやはり成金の影は消しがたいようにも思える。
戦前の世界、江戸時代の殿様がまだ幅を効かせていた時代のことを思ってしまう。
今という時代はどうなのだろうか、成金だらけになってしまったのだろうか。解り難い時代だ。ジャパニーズドリームの輪郭すら今やぼやけきっているようにも見える。
金があればそれでいいという訳でもない、権力があればそれでいいというわけでもない、価値観の多様化それが当然の時代になっている。最近亡くなった赤瀬川原平のような生き方がうらやましく見えてしまうそんな時代になっている。犯罪者でもない限りどのような人の生き方もネガティブに評することは出来ない時代になっているようにも思える。どこに流れ着くのだろうか、この時代は。
そんなことを考えて立花氏の資料館を見ていたら、江戸初期に当時の当主立花宗茂は東北の棚倉から移封されたとの説明が目に入る。棚倉といえば福島県だ、いわきと白河の中間くらいにある、そんな所と繋がっていたとはとやや驚いた。戻ってネットでもう少し調べていく。
立花宗茂はもともとは柳川の地にいた小大名であった。戰に長けており秀吉から西の立花
宗茂か東の本多忠勝かといわれたという。更には本多忠勝よりもはるかに優れたこの国随一の武将とも言われたようだ(図はwikipediaより)。秀吉の評価が高く恩義になったこともあり関が原では西軍に組したため一時浪人となっていたが家康に認められ棚倉の地に3万石の大名として遇された。その後大阪冬の陣夏の陣で幕府側の参謀役として戦いその功績もあって旧領の柳川藩に移封された。戦国の世で誰もが認める実力の人だったようだ。そういう歴史を柳川という地は抱いていたのかと思う。
このような形で戦国の世は地方が流動し知恵が全国に広まって行ったのかと思いを致す。確かに奥州上杉藩を立て直したのは九州の小藩高鍋秋月藩藩主の次男松三郎―後の上杉鷹山であった、東北と九州の距離は今思うほど遠くは無かったようだ、実力の世には人の流動を時代が求めるのだろう。
堀を巡る船遊びもベニスには比すべくも無いが船頭の歌がそれらしく、名物のウナギのせいろ蒸しも美味で、庭を見たり白秋の生家を巡ったり、面白くも疲れた。干潟もあるはずと有明海に向かうが柳川の南は堤防で囲まれて廃棄物処理場があるばかり、干潟を眺めることはかなわない。人の手があまねく入っている九州の自然をここでも感じる。そういうところなのだこの地は。
秋の日は麗らかに過ぎてまた少し解ったことが増えた。柳川というところは人の魅力だったようだ。たゆたう時間が面白い。九州は奥が深い。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)