広島再訪その2
広島を訪れたのは3回目か4回目になるが宿泊したのは初めてだ。一泊すると暇な時間が少しは出来て街を歩き回ってみる。原爆の跡は普通に残っているのだろうか、その興味もあった。
宿泊したのは広島駅近くだったがあたりにその痕跡を求めてみるとそれと思われるものが幾つも見つかる。
広島は三角州の上に作られた街だけに橋が多い。駅前から歩いて橋を巡っていくとたいていの橋が戦前に建造されていて欄干の石には昭和2年といった建設年が彫られていて、建設当時の石が年月にも原爆にも耐えて残っているのが解る。補修はあるものの石橋の石は多くが日焼けしたような色合いになっている、原爆の痕跡を保っているようだ。川沿いの小さな神社の石組みの崩れもそれらしい。
日常の中にある被災の刻まれたものが却って戦争のむごたらしさを滲み出しているようにさえ思える。どの時点ならあの戦争は避けられたのだろうか。
広島を訪れることになってああこれは読まねばと柳田邦男の「空白の天気図」を読んでいたら幾つもの知らない話にぶつかる。
日本でも陸軍と海軍で原爆の研究は行われて国内はもとより米国でもこの戦争には原爆の完成は間に合わないだろうとの結論になっていた。ところが現実に落とされたらしいとなって陸軍の原爆研究をっていた理化学研究所の仁科博士が原爆投下の翌々日には飛行機で飛来して調査を始めた、海軍の原爆研究の中心だった京大もすぐに調査団を編成して現地へ赴いた。これらの調査
から原爆に間違いないとの結論がすぐに出され、続けて長崎に落とされた後次は東京だろうとの噂が乱れ飛んでいたという。確かに戦争終結の決定打だったというのは言い過ぎではないようだ。
放射線による原爆症の知識は当時は広島には全く伝わっておらず、放射線によって内臓障害を起こし下痢が続くものが続出したがこれは赤痢だと現場の医者も判断し臨時伝染病院まで設置されたという。伝染病にかかったということを知られたくなくてそのような症状を隠したがる風潮もあったらしい。福島の事故でもみられたように雨で流れて放射線が特に強いホットスポットが出来ており、破壊を免れた家屋に寝起きしていた家族のうち黒い雨によるホットスポットに近いところで寝起きしていたものだけに原爆症の症状がでたということもあったようだ。そう思うと66年の時を経てフクシマの放射能への恐怖にも繋がっているように思える。
「ヒロシマはどう記録されたか」という別の本を読むと原爆直後の写真は中国新聞社のカメラマンによる僅か5枚の写真しかなかったとある。カメラマンは余りの惨状にシャッターをなかなか切れなかったと後に述懐している、プロでも写真に撮れないと言うことがあるのか、東日本大震災の跡を巡った時に写真を撮ろうとして似たような感覚に襲われたことを思い出す。
京大の調査団は宮島の対岸にあたる大野浦の陸軍病院に宿泊して活動していた。ここが被災から約1ヶ月後、巨大台風である枕崎台風に直撃された。土石流に深夜襲われ破壊され入院していた多数の原爆被害者とともに収集された貴重な資料と多くの科学者も失われている。2重3重に降りかかる厄災、容赦ない。
東日本の震災とフクシマの容赦ない有様がヒロシマとどうしても2重写しになる。
理化学研究所といえば最近のSTAP細胞騒動を想起もする。
今に生々しく繋がっている過去を感じてしまう。
我々はすべからく過去の土の上に立って生きている、当たり前のことを思う。靴裏につく砂粒の元素を辿っていけば何億年も前の世界にも行き着くだろう。
何を残せるだろうか、また考えてしまう。
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