萩にて
萩を訪れた。
萩というところは数十年前の「ディスカバージャパン」の時代から 若い女性向け観光地 との思い込みがどこかにあっ てこれまで足を向けることがなかった。
このところ大河ドラマでも毎週登場し、また世界遺産登録も間近になってきたこともあって一度は行ってみるべきかとの想いから萩行きを計画した。
どうせ行くなら、世界的な銀の供給基地として18世紀頃の世界の経済に大きな役割を果たしていた石見銀山とセットで見に行こうとぼんやり思っていたが、旅行のプランを具体的に立て始めてみると萩から石見銀山へ行くにはいい道がない。山陰自動車道が整備されるまでは車では5-6時間かかりそうだと解る、山陰は人口が少なくどうしてもインフラが後回しになるようだ。残念だが石見銀山は諦め、せめて萩くらい、という気持で萩を訪れた。萩を訪れての最も素朴な驚きは、情けない話だが、萩藩は幕府を倒したあの長州藩と同じものであったということだった。
長州藩というと山口あたりの大きな藩で萩藩とは長州に属する小さな田舎の藩くらいの印象を持っていた、
萩の名所めぐりではどこにも萩藩と長州藩は同じものとのはっきりとした説明は無いのだが、巡っていくとそのようで、どうにも解せなくて宿に入ってネットで調べ直してそうだったのかと初めて納得した。なんということだ。
萩の街並みは中心部近くでも明治維新の頃の姿を残している。明治維新時の旧宅がやたらと保存されていて見だすとき
りが無いと思わせる。
そうはいっても世界遺産の反射炉や造船所跡は案内標識も貧弱で見つけにくく、朽ちた遺構に対する熱意はそれほど感じられない。街が生きていくために見栄えのいい観光受けするもの が大事にされてきたようにも感じる。しかしともかく見るものが多い。
萩の古い町並みを巡っていて気になるのは瓦だ。光沢のある赤茶色や黒色の立派な屋根瓦があちこちで目立つ。
これも後で調べてみると石州瓦という石見産で高温焼成の瓦が古くからこの辺り一帯で用いられてきたようだ。
当地の江戸時代上層農家の例と
される重要文化財の森田家住宅も同じような石州瓦が用いられていた。江戸時代からの重要文化財の農家といえば日本の他のところでは茅葺のものしか見たことがない。いい物を使うほうが結局は長持ちして安上がりという合理性が昔から根付いていたのだろうか。しかしこんな片田舎の小ぶりな街が明治維新の核となり江戸幕府を倒しついには西南戦争で薩摩をも倒し日本を牛耳ることになるとは俄かには信じがたい思いがする。明治以降、成功の利益誘導で街が発展を遂げたということも無いようだ。財を成さず名を成すことを重んじる伝統が強くあったのだろうか。不思議な街だ。
確かにこの街は見て考えるに値するような気がしている、何かを伝えてくる。変革を醸成するには中心から一定の距離も必要ということだろうか、利益誘導を重んじない清廉さだろうか。
翌日日本海周りに下関に向かい、途中で土井ヶ浜遺跡に立ち寄った。2300年位前の前期弥生期に渡来人の作った集落の大規模な墓地遺跡だ。300体にも及ぶ人骨が発掘されている。それまでの縄文人とは大きく異なり中国山東省(北京と上海の中間にある)で同時代に出土した人骨と酷似した特徴があるという。中国から集団で渡ってきて弥生人として住み始めたのだろう。縄文の日本を変え始めたその起点の一つの証拠なのだろう。
西の海に開けている良港は昔から新しい事物を受け入れ人を受け入れ文化文明を育んできたのだろうか。中央からは山の彼方の片隅でも西に向かって大きく世界に開けている、その一つの結末が萩が幕府を倒したということだろうか。そんな単純なことでもあるまいが案外事物は単純なことで動かされているような気もする。
土井ヶ浜遺跡の近くで立ち寄った角島の高い灯台を勇んで登った疲れだろうか、迫る眠気を振り払いながら九州高速を走らせた。
旅の仕方も体力の衰えという単純な事態を正面から受け止めねばならない歳になってきたのかもしれない。単純な理由はやはり受け入れるほかないようだ。
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