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2015年5月31日 (日)

2015年5月の野鳥

5月の福岡市南区近辺では、近くでもいいし出かければそれなりに鳥が楽しめる。近くの散歩コースではカワセ150503kawasemi1aミペアが久し振りに出現、マガモのヒナも何とか1羽は生き延びた。英彦山ではアカショウビンの声を久し振りに聞きもした。主なものは

2015.5.3福岡市南区長丘の野鳥;中公園:カワセミ2(♂♀),キビタキ1,キュウシュウコゲラ、バン、カワラヒワ、ヒヨドリ、ムクドリ 新市楽池:マガモ4(内ヒナ1),バン、ドバト 鹿助公園:アオサ ギ、ドバト、ムクドリ

201505magamohina 2015.5.7.10:25-12:25  大授がらみの野鳥;
トウネン,オオソリハシシギ,ソリハシシギ150507daijyu,チュウシャクシギ,ハマシギ,サルハマシギ,オバシギ,コオバシギ,ダイゼン,ダイサギ,クロツラヘラサギ,メダイチドリ,ツクシガモ

2015.5.13 福岡市南公園 ;ヨタカ1(昼寝)

2015.5.17 11-12時前後 英彦山深倉峡の野鳥:アカショウビン(声)、オオルリ、キビタキ、ミソサザイ、リュウキュウサン ショウクイ、キセキレイ、コゲラ、シジュウカラ、ソウシチョウ

2015.5.19 福岡市油山片江展望台 ハチクマ50+,トビ、ミサゴ

2015.5.23 福岡市南区長丘の野鳥;中公園:コサギ1、マガモ1、バン1、カワラヒワ 新市楽池:マガモヒナ1150513yotakax
福岡市
  2015.5.25 pm2-4 油山の野鳥:カワラヒワ5+、キビタキ(声)、ヒガラ、ホトトギス(声)、センダイムシクイ1、シジュウカラ、リュウキュウサンショウクイ(声)、ツバメ、ハシボソガラス、ヒヨドリ

2015.5.31福岡市南区長丘の野鳥;中公園:マガモ2、アオサギ1、バン1、ムクドリ、カワラヒワ、シジュウカラ、ツバメ 新市
楽池:マガモJ1、ドバトOoruri2 鹿助公園:マガモ2、アオサギ1、ドバ 150517rsansyoukui2hiko_2 ト、バン、ムクドリ、ツバメ

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2015年5月29日 (金)

大友宗麟に驚く

大友宗麟が解らない。大分を訪れて崩れかけたというより剥ぎ取られたような石仏を大友宗麟の館の近くの岩屋寺磨崖仏に見、大友宗麟には一言も言及しない大分城址の現地説明板を読み、そう思った、何かダークなものを感じる。大分の戦国時代の英雄でSourin はなかったのか。

大友宗麟とは戦国のキリシタン大名で一時は北部九州を広く支配下に収めたがその後滅ぼされた、そんな説明だけでは解らない。
そういえば九州の戦国大名の企画展を九州国立博物館で開催されていると思い出して、何かわかるかもしれないと急いで見に行った、今週で終了予定だ。
あまりメジャーな催しでもあるまい、空いているに違いなかろうとタカをくくって行ったら、平日というのに駐車場は結構クルマで埋まっていて更に次々にクルマがやって来る。ふーんと思いつつ中に入ると、展示の前でじっくり眺めるおばさんおじさんで確かに混んでいる。ともかく見始めると、じっくり眺める雰囲気が分かってくる
名前は知っている身近な地名や歴史的人物が次々に現れる、ふーんそうだったのかと思う事が幾つも出てくる、ちゃんと説明を読みたくなる。足が遅くなるわけだ。

大友宗麟の展示も多い。欧州としきりに貿易していて、貿易港だった有明海の港・高瀬津に「国崩しの大砲」が(インドから)着いたので人足を送って欲しいとの宗麟宛の書状が展示されてもいる。宣教師とのつながりで洋式大砲もいち早く戦力化したようだ。
寺院や仏像の破壊を相当行ったようで秀吉の宣教師追放令の一つの原因となったと言われている。
確かに先日訪れた岩屋寺磨崖仏の崩れ方は、人の手によって執拗に破壊されたと見た方が納得できる壊れ方をしていた。現地説明書きには、キリスト教に配慮してか、脆い岩に削られたためとしてあったが、大分市内にあり宗麟の館跡とされる場所からそう遠くはない、如何にも人為的破壊がありそうだ。耶馬溪の羅漢寺にも大友軍が攻め寄せてきて焼き払った事が伝えられており、宇佐神宮も1561年に焼き討ちされている(宇佐神宮HPによる)。石仏が多く残っているのは石仏以外は残りにくかったということかもしれない。

展示に触発されたのもあり戻って更にネットで調べてみる。
大友宗麟のキリスト教入信には軍事に西洋の力を利用したかったということの他に貿易による利益を得る面があったといわれているが、当時の輸出品の一つに多数の奴隷があった模様だ、これには宣教師も関わっていたらしい。特に九州では横行していたようでもある、戦いに敗れた地域から奴隷を取っていたらしい、ネットを手繰っていくとそんな事実が次第に明らかになる。全く知らなかったが忌まわしい時代を大友宗麟は象徴しているようだ。奴隷として海外に渡った人の数は数知れず、秀吉の宣教師追放令のもう一つの理由が奴隷輸出の禁止を徹底させることにもあったといわれる。

 ISではないが宗教は氷のように冷たく非寛容な側面を有していてそれが発露されると狂ったような恐ろしい破壊や乱行が行われたように思っている、宗教はトータルとして人類を幸せにしてきたのだろうか、疑問を抑えることができなくなる。

それにしても大分にでかけたのはアルゲリッチを聴きに行くためだったが、こんなことまで学んでしまう。生きていることは学び続けることなのだろう。

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2015年5月26日 (火)

この夏のエルニーニョを眺める

この夏はどうみても明瞭なエルニーニョのようだ。日本にとっては太平高気圧が弱く、夏らしい夏にならない、というのがエルニーニョの夏だ。

エルニーニョとは神の子(男子)の意味でペルーの原住民が使っていた(神の子の祭りである)クリスマスの頃にやってくる暖流を指していたようだが、現在はもっと大きくペルー沖の赤道付近の広い範囲の海水温が高くなる現象に使われている、クリスマスとは特に関係しない。

東太平洋の海水温の上昇は赤道付近の西風が強くなり西太平洋の温暖な海水が東に吹き寄せられた結果として起こる(そうでなければペルー沖には南極からの冷たい海水が浮かびWorldtemp 上がってくる)。
インドネシア付近の西太平洋では暖水の東への流出により海水温が低下し上昇気流がいつもより弱くなる。
赤道の上昇気流で上がった大気が中緯度で循環して下降気流になって降りてきたものが太平洋高気圧の正体だったため、エルニーニョでは元になる赤道付近の上昇気流が弱まり太平洋高気圧が弱まる結果となる、という次第だ。

現在の海水温分布で(添付図)既にペルー沖の海水温は例年に比べ十分高い、もうエルニーニョ状態に入っている。これがこの先更に高くなる予測だから身構えてしまう。

梅雨前線が長く日本上空に居座るかというとそうとも限らない、現在のように太平洋高気圧が弱く梅雨前線がずっと南にあっても晴れが続けば暑くなりうる。現在の弱い太平洋区気圧も既にエルニーニョの結果とみなせる。まともな入梅、梅雨明けが無く、定まらない天気が夏中続くと覚悟しておいたほうが良さそうだ。南からの湿舌による豪雨よりも北の寒気が時折降りてきて不安定な雷雨となるのを警戒すべきかもしれない。

梅雨だから長雨、梅雨明けだから一気に暑くなるということにはならないだろう、空梅雨っぽい雰囲気があって思い出したように雨となる、そんな雰囲気かもしれない。
こんな時は梅雨でも雨と決め打ちしないで遊ぶ予定を入れるのが理にかなっているようにも思える。

こんな風に未来を予想して時の流れを眺めていくのも、仕事を離れてのんびり過ごす身には楽しいことの一つだ。さてどうなるか。

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2015年5月24日 (日)

火山が活発になってきたようだ

このところ火山の活動が活発化しているようだ。そこはかとない不安が世の中に漂っている気がしている。
地震とも関係有ったはずだとプレート運動と火山の関係をネットで少し調べてみる、およそのことは解ってくる、便利な世の中になったものだといつも思う。
Chikaku 日本の火山は、プレートの沈み込み運動によるプレート面の摩擦でマグマが出来これが地表まで上昇して噴火にいたる形態をとっているということのようだ。プレートの沈み込みラインより外側200-400kmくらいのところに火山帯と称する火山のラインが形成されている。プレートが地下120km前後の深さまで沈み込んだあたりにマグマだまりが形成されやすくこれが地上に吹き上げて火山となるという仕掛けだ。
休火山があったり活火山があったり火山が急に活動を始めたりする理由は明快ではないがプレートの動きによるひずみや摩擦熱が深いところに多く貯まったりすれば火山の活動は活発になるだろうとの推測はつく。
Nihinkazan 東日本大震災以降火山活動が多いのは大震災によってプレート運動の引っ掛かりが取れたようによく動いていて摩擦も増えてきたのではないかという気がする。そうだとすればこんな状態は直ぐには収まらず暫くは(数十年位は)続くのだろと思ってしまう。
箱根は太平洋プレートがフィリピン海プレートの下にもぐりこんでいる北の端に当たっているし、西ノ島新島も太平洋プレートが南のほうでフィリピン海プレートの下にもぐりこんでいるところだ。御嶽山はフィリピン海プレートがユーラシアプレートにもぐりこんでいる北の端くらいだし、阿蘇、霧島、桜島、口永良部島は同じくフィリピン海プレートがユーラシアプレートにもぐりこむ中緯度あたりだ。こうしてみると何とはなしにフィリピン海プレートの周辺でプレートの摩擦が増えてマグマ生成が増え火山活動が活発化しているように思える。マグマが生成されやすい何かがあるのだろうが良く解らない、若いプレートなのだろうか。
九州の火山帯では幾つもの大規模なカルデラ噴火の跡が残されている、マグマだまり自体の爆発である恐るべきカルデラ型の大噴火が数万年の幅では九州で起こると思っていたほうが良さそうだ。しかし数万年に一度では備えも出来ない。

マグマだまりは正確にはどこにあってどんな形をしているのか、どのような動きをしているのか、まだ検知できる技術は確立していない様だ。近年ある種の宇宙線を透過光のように利用する手法が次第に実用に供されようとしていて、数十年もすれば当然のように正確なマグマの情報を普通の人が目にすることが出来るようになるだろう。備えが出来るようになるだろう。こうしてやっと解らないという不安は少しばかり和らぐだろう。


人間の技術などまだまだ稚拙の極みというのが現在の状態と思っている。火山を巡る不安,地震をめぐる不安、といった類の漠とした不安が人類を少しずつ前に進めるのだろう。たくみに全滅を逃れながら人類という生物は三葉虫や恐竜並みに1億年先の未来まで辿り着いてくれるだろうか。

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2015年5月18日 (月)

アルゲリッチとアカショウビンと

2015年別府アルゲリッチ音楽祭・大分iichicoホールの演奏会でアルゲリッチの未だ衰えない若々しささえ感じさせる演奏に接し何か安心を覚えた翌日、中津へ廻ろうか英彦山の深倉峡で野鳥を見ようか、迷った末エイッと英彦山にした。
Iichiko

アルゲリッチ
(写真はパンフレットより)はベートーベンのピアノ協奏曲2番とアンコールでシューマンの夢のもつれを弾いた。いずれも初めて聞く曲だったがまるで音楽コンクールで優勝した新人のコンサートのような未来に開ける若さと端正さを感じた。アルゲリッチというとCDで聴いていた情熱的なショパンの演奏の響きが頭にあった、ちょっとした驚きだった。さすがだと思ったしまだまだこの音楽祭は続くだろうと安堵した。アルゲリッチはゲルバーと同年のはずだ、一昨年聞いたゲルバーに素晴らしいが年齢による限界に近づいているところをどこか感じただけに、気になっていArugerichた。
ともかく大分まで出かけてきただけのことはあった。

翌日英彦山深倉峡に立ち寄った。こちらも初めてのところだが、5月10日の日本野鳥の会筑豊支部の観察会でヤマセミ、アカショウビン、クマタカなどが観察されたと報告されていて行ってみなくてはと思っていた。
英彦山川上流域となるJR英彦山駅にとりあえず到着する、ここらから野鳥がいかにもいそうな環境となる。周りを見て廻った後深倉峡の園地へ向かうが落石が転がった広くは無い山道で離合に気を使う。
Ooruri1 園地は駐車場やトイレがあり野鳥観察のポイントとしては設備がちゃんとしているほうだ。直ぐ近くでオオルリが酔うようにしてさえずり続け久し振りに聞くミソザザイのけたたましさやリュウキュウサンショウクイの大振りな姿など気持ちのいい渓流とともにいい時を過ごせる。そのうち、アカショウビンの声が聞こえてくる。渓谷にいることは間違いないようだ、姿は現してくれない。しかし九州に来て初めて聞くアカショウビンの声は何か懐かしさを覚える、奥胎内だ十二湖だと走り回っていた頃のことを思い出してしまう、この地で繁殖しているのかもしれない。そうあってほしい。
クマタカもどこかにはいるはずだが姿を現さない、峠まで上がらねば無理なのかもしれない、山登歩きの準備もしてなくて弁当も無くてはこれ以上進めない。残念だが引き上げる。


こんな気ままな思いつくままの暮らしを続けている、これがまっとうな生き方なのかもしれないと思えている。今日は雨だ、読みみかけていた白州正子の西行を読んでしまおうか、インターネット句会用の俳句でもまとめてしまおうか、写真の整理でもしようか、そぞろに考えていて、こんなのもいい。

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2015年5月15日 (金)

アシアナ航空広島空港着陸事故の公表データを見る

広島空港のアシアナ航空着陸事故調査の速報版パワーポイントがネットに公表されたので(http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/air-flash.html)、暫く眺めている。見る限り着陸復航するしかない状態ですべき時にその決断をしなかったとしか言いようがない。明瞭なパイロットミスだ。
Flightdata 着陸進入の操縦そのものは普通で速度の低下などは無いし、復航決断ポイントの高度がやや低目かもしれないが低すぎるということでもない、普通といっていい。GPSを使うLNAV/VNAVに従ってILS(計器着陸システム)のようなパスで定常降下しVDP(目標降下地点)の位置(滑走路端から約2400m手前)でほぼMDA高度(最小決断高度、この場合は1500ft)に達している。ここで滑走路の視認を確認して視認できなければ視認できるまで水平に飛びMAPt(滑走路端の1850m手前)に達したら着陸復航する手順となるがここではそのまま降下を続けている、滑走路が視認できていたことになる。空港の気象データからは、この時の滑走路視程は400-450mで、視認できた状態とはとても思えないがパイロットはこれくらいなら降りれると思ったのだろう。定時運行せねばとの暗黙のプレッシャーを感じていたのかもしれない。
MDA到達でコールがあるはずだが、ボイスレコーダにはこのあたり何が録音されていたのだろうか、気になるところだ。
滑走路を視認できないまま手探りで降下を続け、やっと滑走路が見えたところで初めて低すぎに気付き慌ててパワーを入れて引き起こしたが間に合わなかったということのようだ。
どうすれば防げたか。基本的にはパイロット教育の徹底ということになろうが、パイロット教育の体制に一抹の不安が残るエアラインも存在することを思えば、これ以上はこの空港の場合ILSを何とか東側にも設置するほかない。
乗客としては不安のあるエアラインには乗らないようにするしか無い、ということになる。

それにしてもアシアナの広島便運行再開にあたって日本の航空局サイドからどのようなアクションがなされたのだろうか、アシアナは何を行ったのだろうか、そのあたりもオープンにされるべきことのように思う。政治的配慮がなかったことを祈るばかりだ。

安全は結局は殆どが人の問題という当たり前のことをまた思い知らされた事故だったように思えている。我々は少しは前に進めているのだろうか。

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2015年5月14日 (木)

明治日本の産業革命遺産 三重津海軍所跡

満潮の有明海・大授がらみで干潟の鳥が夏羽になったなあと、バードウオッチングを満喫したあと、世界遺産登録をイコモスが推薦した佐賀にある三重津海軍所跡を見に行った、「明治日本の産業革命遺産 」の構成資産だ。(添付図は佐賀県のHPより転載)。
Sectmietsu1
幕末から明治の初めの佐賀藩の位置は面白いものがある。明治維新の中心となった薩長土肥の一角を佐賀藩は占めるわけだが、どうにも鍋島の殿様の軍事オタクぶりが強くて当時の国内の軍事技術の先頭を走っていたと思われる辺りが面白い。
まずは鉄製の大砲が重要とばかり国内で最初の本格的反射炉を独力で作り上げる(1850年)。この成果は直ぐに国内に拡散され伊豆韮山、薩摩、萩の反射炉建造に知見を与えた。佐賀藩の場合は当初は幕府を支える意味合いが色濃く 幕府に品川砲台等の大砲を多く供給している。東芝の祖となった田中久重(からくり儀右衛門)もこの時期佐賀藩に招聘されてその知恵と腕を精錬や蒸気機関、蒸気船建造等に縦横に振るっている。
この佐賀藩の唐突とも思える新鋭武器開発”ラッシュ”のきっかけはオランダ船を偽装して長崎に侵入したイギリス船フェートン号の要求に日本側がなすすべもなく従ったフェートン号事件(1808年)の教訓が大きいとされている。この時長崎の港の警護には佐賀藩が当たっており不始末の責を問われ家老が切腹したという。フェートン号事件は、ナポレオンのフランスに占領されその支配下となっていたオランダ商館への敵対国イギリスの攻撃の一環であり、ここにもナポレオン戦争の火が及んでいたことになる。これを機に日本が世界史の流れにいやおうなく巻き込まれていくという危機感が幕府及び各藩に急速に広がったように思える。
佐賀藩は大砲や蒸気船の自主開発に走り、その後倒幕側に廻って戊辰戦争の官軍勝利にも佐賀藩の大砲が決定的役割を果たした。
佐賀藩は技術で明治維新に貢献したことになる。
また、維新後佐賀藩出身で明治政府中枢で活躍した江藤新平はフランス法制度がいたく気に入りフランス的な民主主義制度導入を唱導したが大久保らと意見が合わず征韓論を機に下野して佐賀の乱を起こした。余程危険人物と思われていたのか捕縛された後、即日斬首さらし首にされている。先へ先へと先走りすぎたのかもしれない。

武器や制度といった実質的な面で時代の先を走る雰囲気が佐賀藩にはあったような気がしている。それにしても突っ走り方が気味がいい。

調べてみると佐賀藩の日本初の反射炉は明治期に破棄され跡形もなく、この三重津海軍所Sagasimietsu 跡が国産蒸気船建造の遺跡として残るばかりだ。発掘された遺跡は埋め戻され 訪れてもただ広い川原の原っぱが残るだけだった。河川敷だから雨で川の水位が上がると地上のものは流される危険があり復元構造物や保存のしかけを建てるわけにもいかないのだろう、どうしようもない。

すぐそばの佐野常民記念館からバーチャルスコープを借りて当時の有様をバーチャルに見ることは一応出来るが、物足りなさはぬぐえない。原っぱが世界遺産とは。。と思ってしまう。国指定史跡に指定されたのは2013年だ、世界遺産申請の話がふって来たのであわてMietsui2 て史跡に指定した様が伺える、何だか苦しい。でも佐賀はよく整備しているほうだ、地元の熱意がある。

先日萩にある「明治日本の産業革命遺産 」も見たが、案内表示も貧弱で、反射炉や造船所跡を史跡として世界レベルのものだと地元が認識しているとは思えない扱いだった。産業遺産は直ぐに世界遺産というよりまず国内での遺産としてきちんと整備され評価されるべきものではないかと思わせる。

この他にも何故松下村塾や萩街並が産業遺産群に含まれているのか、今回の申請には疑問が幾つも浮かんでくる。山口県出身の総理を抱く現政権におもねるというか現政権の利益誘導というか、無念を晴らすというか、そんな疑いがどうしても湧いてくる世界遺産申請に思えている。ちょっといやな空気を感じる。

見渡せば防衛面での実質的な手がぴしぴし打たれていて、戦前への回帰的雰囲気さえ感じられてくる。
この国は次第に危うくなっているのだろうか。

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2015年5月 1日 (金)

アシアナ航空の広島空港着陸失敗事故

広島空港でアシアナ航空162便が着陸に失敗して大破した事故から3週間弱経ったがまだフライトレコーダに基づく事故原因調査速報は出てこない。ちょっと遅い。原因を突Asiana き詰めるのは時間がかかるとしてもどういう状況であったのかの公表くらいは有るべきではないかと思える。広島空港の事故機は搬出され空港の運行が元の状態にほぼ戻っている現状では事故のとりあえずの分析に基づく再発防止のアクションが直ぐにでも取られなければならないタイミングだ。政治的な判断でもあるのだろうか、責任追及ではなく事故防止を最優先にというのが事故調自体の強い希望のはずだ。


今回の事故の印象はまたアシアナか、だった。

2013年7月にサンフランシスコ空港でアシアナの777が着陸に失敗して大破、死者3名を出した事故の再現のようだ。

サンフランシスコの事故でも空港のILS(計器着陸誘導装置)が工事で停止していた滑走路への着陸だった。今回の広島空港の事故もILSが機能しない側の滑走路方向からの着陸だ。同じように滑走路手前で接地し機体を大破している。

サンフランシスコの時は気象条件は良好、機体も問題ないことからパイロットの操作ミスとすぐに解った。オートスロットルをミスして切ったまま着陸進入した(操縦輪を引けば速度も下がるが高度が下がる所謂バックサイドコントロールとなる)、目視着陸の訓練も不足していた(パイロットは1万時間近いベテランだったがそれでも未熟!)というのが主な原因とされる。

今回は気象条件がかなり悪くパイロットの負荷が高い状況でミスが重なったと推察されるが、どのような操作をしていたのだろうか、またオートスロットルを切ったままの着陸を行ったのではなかろうか。

アシアナ航空はサンフランシスコ事故から十分な教訓を得ていたのだろうか、オートスロットルを切った状態で操縦桿操舵だけでは着陸の低速時に飛行経路コントロールは出来ないことを体得していたのだろうか、アシアナはサンフランシスコ事故の本質的な問題をきちんと認識した再教育をしていないのではなかろうか、不安が幾つも沸いてくる。

昨日30日にアシアナの事故を起こした広島=インチョン線が再開されたという。ゴールデンウイークには何としても再開にこぎ着けたかったのだろう。そんな状況下、首相訪米にあわせて日韓関係をおもんばかっての事故調査速報発表を遅らす処置が日本政府サイドでなされているのではあるまいか。色々勘ぐりたくなる。

エアラインを選ぶにはいよいよ乗客側の判断が求められるご時勢になってきたのかもしれない。政治がまともになってほしい、そう願うばかりだ。

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