明治日本の産業革命遺産 三重津海軍所跡
満潮の有明海・大授がらみで干潟の鳥が夏羽になったなあと、バードウオッチングを満喫したあと、世界遺産登録をイコモスが推薦した佐賀にある三重津海軍所跡を見に行った、「明治日本の産業革命遺産 」の構成資産だ。(添付図は佐賀県のHPより転載)。
幕末から明治の初めの佐賀藩の位置は面白いものがある。明治維新の中心となった薩長土肥の一角を佐賀藩は占めるわけだが、どうにも鍋島の殿様の軍事オタクぶりが強くて当時の国内の軍事技術の先頭を走っていたと思われる辺りが面白い。
まずは鉄製の大砲が重要とばかり国内で最初の本格的反射炉を独力で作り上げる(1850年)。この成果は直ぐに国内に拡散され伊豆韮山、薩摩、萩の反射炉建造に知見を与えた。佐賀藩の場合は当初は幕府を支える意味合いが色濃く 幕府に品川砲台等の大砲を多く供給している。東芝の祖となった田中久重(からくり儀右衛門)もこの時期佐賀藩に招聘されてその知恵と腕を精錬や蒸気機関、蒸気船建造等に縦横に振るっている。
この佐賀藩の唐突とも思える新鋭武器開発”ラッシュ”のきっかけはオランダ船を偽装して長崎に侵入したイギリス船フェートン号の要求に日本側がなすすべもなく従ったフェートン号事件(1808年)の教訓が大きいとされている。この時長崎の港の警護には佐賀藩が当たっており不始末の責を問われ家老が切腹したという。フェートン号事件は、ナポレオンのフランスに占領されその支配下となっていたオランダ商館への敵対国イギリスの攻撃の一環であり、ここにもナポレオン戦争の火が及んでいたことになる。これを機に日本が世界史の流れにいやおうなく巻き込まれていくという危機感が幕府及び各藩に急速に広がったように思える。
佐賀藩は大砲や蒸気船の自主開発に走り、その後倒幕側に廻って戊辰戦争の官軍勝利にも佐賀藩の大砲が決定的役割を果たした。佐賀藩は技術で明治維新に貢献したことになる。
また、維新後佐賀藩出身で明治政府中枢で活躍した江藤新平はフランス法制度がいたく気に入りフランス的な民主主義制度導入を唱導したが大久保らと意見が合わず征韓論を機に下野して佐賀の乱を起こした。余程危険人物と思われていたのか捕縛された後、即日斬首さらし首にされている。先へ先へと先走りすぎたのかもしれない。
武器や制度といった実質的な面で時代の先を走る雰囲気が佐賀藩にはあったような気がしている。それにしても突っ走り方が気味がいい。
調べてみると佐賀藩の日本初の反射炉は明治期に破棄され跡形もなく、この三重津海軍所
跡が国産蒸気船建造の遺跡として残るばかりだ。発掘された遺跡は埋め戻され 訪れてもただ広い川原の原っぱが残るだけだった。河川敷だから雨で川の水位が上がると地上のものは流される危険があり復元構造物や保存のしかけを建てるわけにもいかないのだろう、どうしようもない。
すぐそばの佐野常民記念館からバーチャルスコープを借りて当時の有様をバーチャルに見ることは一応出来るが、物足りなさはぬぐえない。原っぱが世界遺産とは。。と思ってしまう。国指定史跡に指定されたのは2013年だ、世界遺産申請の話がふって来たのであわて
て史跡に指定した様が伺える、何だか苦しい。でも佐賀はよく整備しているほうだ、地元の熱意がある。
先日萩にある「明治日本の産業革命遺産 」も見たが、案内表示も貧弱で、反射炉や造船所跡を史跡として世界レベルのものだと地元が認識しているとは思えない扱いだった。産業遺産は直ぐに世界遺産というよりまず国内での遺産としてきちんと整備され評価されるべきものではないかと思わせる。
この他にも何故松下村塾や萩街並が産業遺産群に含まれているのか、今回の申請には疑問が幾つも浮かんでくる。山口県出身の総理を抱く現政権におもねるというか現政権の利益誘導というか、無念を晴らすというか、そんな疑いがどうしても湧いてくる世界遺産申請に思えている。ちょっといやな空気を感じる。
見渡せば防衛面での実質的な手がぴしぴし打たれていて、戦前への回帰的雰囲気さえ感じられてくる。
この国は次第に危うくなっているのだろうか。
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