モネ展
マルモッタン・モネ美術館所蔵品の展示と銘打って、東京、福岡、京都。。。とまわっている。また印象派か、とも思う。
人が入る美術展を企画しようとすれば名の知れた印象派をみせるのが常套なのだろう。巡回展というと、福岡、京都、東京。。。というのが多いようにも感じる、ビジネスとして成立性を読みやすいのだろうか。いずれにしろどこかに安易さを感じてしまう。
マルモッタン・モネ美術館所蔵の作品は多くが死後手元に置いていたのが見いだされたものという。売れなかったというか売る気で描いていなかった絵ということになるのだろうか。
みていくと、モネの絵としてはちょうど2年前福岡に回って来た富士美術館30周年記念の印象派展のほうがそれらしい絵が多かったようにも思う。売るつもりではなかった絵が必ずしも貴重ないい絵とは限らないとも思える。
とはいえ、せっかくだからと描き方や筆の進め方を気にして見ていく。
睡蓮の絵は沢山描いているだけに手慣れている、縦の光線の線描きと睡蓮の横の線とを直角に交差させるところがポイントのようだ。モネは光を点ではなく線に分解しているようにも見えてくる。やはり光の描き方にこだわっている。
パレットが展示されていたが自分のと似ていて随分と絵の具に埋め尽くされている、あまり色を混ぜないで細い筆を多く揃えて色々使い分けて描いていたのだろうかとも思う。
晩年の白内障が悪化してきてからの絵は、描きかたがより本質的になってきたようだ。いい絵になるかどうかは別にして対象そのものというより跳びはねる光の散乱をしきりに描いているように感じる。気持ちに正直な絵なのだろう。
見終わってもふーんという感じであまり感動がない。画家として生きていくことの難しさばかりを感じてしまう。
美術展の図録を買いそびれたが帰ると矢っ張り欲しくなる。記憶はすぐに薄れて後までに残るのは結局は図録しかない。調べるとネットで送料無料で売っている、この方が気楽でいい、こんな時代になったのだ。
時々今まで見た美術展を振り返る、歳とともに内に響くものが減ってきているようにも思う、感じれる時にとにかく感じていくしかないのだろう、残された時間というものを見てしまうのも情けないが。
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