修学院離宮で感じる
4月の20日頃京都に遊びに行った小旅行が教訓が多くて忘れないように書き留めておかねばと思っている。
2日目の午前は修学院離宮に行った。修学院離宮と桂離宮を同じ日に訪れるように見学許可を得ることができてそのように日程を組んだのだが、許可が出て改めてその場所を確認してみると京都の右上と左やや下に位置していて結構離れている、そのうえにいずれも最寄りの公共交通機関からは10分以上くらいは歩かねばならない。
雨降りになるのが心配だ。
気象庁のGSM11日予測データを京都付近で切り出して毎日見ていた。8日前の時点では当日は低気圧が紀伊半島付近を通過し終日雨の予想でこれはどうしたものか案じていたが6日前の時点まで近づくと南の大気の張り出しが弱く低気圧は腰砕けで南の海上に押しやられてしまうという予想となり現実にその日がやってくると晴れ上がった好天となった。
南と北の大気が日本付近で入り乱れる春の天気は前もってはなかなか予想の精度が上がらない。悪い予想は大体当たるものだがそうならないこともある、天は公平だ。
ともかく当日は計画通り京都駅前から地下鉄で国際会館前まで行きバスで修学院離宮道まで戻ってそこから歩く。10分位のゆったりとした散歩のような歩みで入り口に到達する、のんびりしたところだ。久蔵の描いた桜図によく似た八重桜が丁度咲いているのを道すがら見たりもする。
修学院離宮は江戸時代、桂離宮より僅かに後の頃に後水尾天上皇により造られている。後水尾上皇は非常にこの離宮を好んで亡くなるまでに70数回も訪れたとされている。上皇は桂離宮にも訪れていて上皇を迎えるために新御殿が造られておりその意味
では桂離宮の完成にも深く影響を与えたと言える、一つの文化的頂点を実現した人ともいえるだろう。徳川家康の圧力で後陽成天皇は(桂離宮を作った)弟の智仁親王に皇位を譲ることができず息子に譲りこれが後水尾天皇となった。皇室と徳川家がせめぎあっていた時期でもあったようで、自然あふれる修学院離宮に格別の愛着を持っていたのもそんな息苦しい時代背景があったためかとも推察される。
修学院離宮は桂離宮のように巧みな技を方々に埋め込んだというようでもなく周囲の自然とのどかな農村風景をうまく取り込んだところが秀逸な印象を与える。
例えば途中の松並木は人工的に低く抑えられており辺りを見渡しながら歩ける、こんな松並木は世界的にも見たことがない。
結構な上り下りの見学路を歩いて行くが忙しいというほどでもない。桂離宮の見切れない感はここにはない。
東の東照宮と京の修学院離宮・桂離宮は確かに当時の文化的先端の両面を具現していと思える。こうであったことが日本の文化に深みと立体感を与えられたのだろう、二つの軸を持つ歴史そのものが日本の文化的バックボーンであり続けたのだろう、今更ながらそんなことを考えてしまう。
京都は大分見たかな、と思うがそれでもまだまだ学ぶところが多いようだ。こんな学びは楽でいいなとも思うし、また来たくなるそんな所のようにも思ってしまう。
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