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2016年4月27日 (水)

桜図を智積院で見る

 6年位前に東京で長谷川等伯展を見た折に夭逝した息子の久蔵の桜図のことを知ったが残念ながらその時は展示されておらず見ることはできなかった。
今回の京都旅行では修学院離宮と桂離宮の見学予約はあったが他の予定はこれというものがなくて、丁度いい機会だ、これを見てみようという気になった。桜図は智積院に等伯の楓図とともに展示されているという。
別に大徳寺聚光院の狩野永徳の国宝襖絵の特別公開もありこれも見ることで予約して、国宝障壁画を見る京都の旅の様相も出てきた。京都は見るべきものが多い。

昼過ぎに新幹線で京都について荷物をホテルにおいてその足で智積院に回る。駅からはバスで10数分だ、近い。
国宝となっている長谷川等伯・久蔵親子の障壁画は秀吉の愛児鶴松の供養のため建立Chisyakuin2 された祥雲寺の客殿に飾られていたものだった。一方、智積院は元々紀州・根来山の真言宗の寺だったが秀吉と対立、焼き討ちにあって高野山に避難していたところ関ケ原の戦い後に勝利した家康から秀吉ゆかりの寺院の土地建物を譲られ現在の場所に再建された。その中に秀吉が鶴松の供養に建てた祥雲寺が含まれていたことから、これらの障壁画が智積院に伝わったという経緯がある。いかにも戦国の世を生き抜いてきた絵ということになる。昭和27年に国宝に指定されている。
智積院ではこれらの障壁画は智積院の大書院を飾っていたが現在は堅牢な収蔵庫に保管してあってこれを見る形となる。1682年と1947年の2度の火災を辛くも逃げ切った絵をもう焼くような恐れのあるところには置けないということだろう。大書院の配置と同じく等伯の楓図と久蔵の桜図が並べて展示してある。

等伯の松に草花図などをぐるリと見て、桜図に至る。柔らかい。花は八重桜でつぼみをSakurazu 持つ花の形がちょっとパターン化した感じのあるところがまだ若い気もする、桜の幹がいい、人間的で柔らかい。左に置かれた等伯の楓図の鋭さ突き刺さるような容赦のない勢いとはあまりの対照を見せる。久蔵が生き延びていればどんな絵が残されていっただろうか。(桜図は
「京都で遊ぼうART」より転載)。
智積院でもらった説明書きでは久蔵が亡くなったあと等伯はその死を悼む気持ちを込めて楓図を描いたとなっているが秀吉の命で桜図と楓図は同時期に描かれたはずで、やや合点が行かない。しかし楓図を見ているとその鋭さにどうしてもそう思いたくなるのは間違いない。もしかしたら
Chisyakuin事実はそうかもしれないとも思う。
桜図は思っていたよりずっと柔らかかった、優しい親子関係を見るようなこの一対の絵は思いを400年前の時空に走らせてくれるところがあって、それもこの絵の価値を高めているような気がしている。

  やっとひとつ宿題を果たしたように思いながら収蔵庫を後にして智積院の大書院を見て回る。利休好みの庭もいい感じでさすが京都の名刹だ。

1日おいて大徳寺聚光院で特別公開の狩野永徳の襖絵を見に行く。等伯・久蔵よりは僅Jyukoin かに前の時代を走って織田信長・秀吉の命で多くの仕事をなした。明らかに時代を代表する絵師だったが、等伯・久蔵の絵を見たあとではどうにも迫力に欠ける思いがする。生き生きしているが写実が今ひとつ不徹底の感がある、そうであってもよく描けた襖絵であることには違いない。(図は「京都春秋」のページより転載)。

Yaezakura それにしても京都には立派な障壁画が方々にある。乱世が終わり城郭や寺社の建築ラッシュの時期となって、襖絵の需要が一気に高まりあちこちの襖を高名な絵師が埋め続けた、そんな時代が切り取られて残されているようだ。絵師にはいい時代だったのではあるまいか。

今という時代はどうなのだろうか、何が切り取られ残されていっているのだろうか。

(修学院離宮近くの民家の八重桜、久蔵の絵に似ている)

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