ケガも治りかけて博物館でも見る
転倒した傷も次第に癒えて少しは出かけれるようになってきたところで手始めに九州国立博物館で開催中の「秦始皇帝と大兵馬俑」と題する展示を見に行った。
東京国立博物館から巡回してきた展示だ。薄暗くしてある博物館なら顔の真ん中に絆創膏を張った状態でもあまり気にする人もなかろうと思ってのことでもある。テレビの天気予報で終
日雨と言っているが実は大して降りそうでもない日を見計らって出かける。とにかく混雑は避けたい。
入ってみると人はいるが狙い通り混雑というほどでもない。
秦より前の周の頃の青銅器などから始まり前3世紀の秦の時代が展示の中心になる。
縄文や弥生土器と古代中国の青銅器が並べてあるような展示を見た時には中国がアジアで圧倒的に進んでいて紀元前の世界では中国には全くかなわないとしばしば思うが、この間ギリシャに行って散々古代ギリシャ文明の遺物を見た目からは紀元前5世紀だとあのアクロポリスの時代かこれ位のものがあっても、と、そうも驚かない。紀元前3世紀なら結構新しいとさえ思ってしまう。
見ていると古代ギリシャと古代中国の文明ははからずも同じくらいのペースで繁栄したようでその原動力は文字の力のように思えてくる。
ギリシャでは現代のギリシャ文字とそう変わらない文字が古代神殿のあちこちに刻んであったがこの展示でも発掘された竹に書かれた現代でも使われそうな文字の書きつけが沢山みられる。文明を先へ進めうる要は何といっても情報伝達・情報処理・知識蓄積を可能にする文字というツールだったということなのだろう。 コンピュータも結局は文字を用いている。更に発展する未来があるものなら文字を超えるツールが出現することになるのではなかろうか。
前5世紀の漆塗りの陶器も展示してある。漆は2500年の歳月に耐えて美しい色合いを伝えている。ここらあたりが東洋の進んだ技術ということになるのだろう。
秦という統一国家はたった15年しかもたなかった。始皇帝が旅先で客死した後はみるみる乱れ項羽・劉邦の漢に滅ばされてしまう。壮大な陵を残し 法律による支配、度量衡の統一されたインフラの整備された巨大国家があっという間についえてしまったのは不可解な気もする。しかし、中央集権のカリスマが突然消えると体制が持たないという好例を与えているようにも思える。凡庸な指導者に率いられても繁栄できる国家が真の強い国なのだろう。
兵馬俑の立像は以前一度見たことがあるような気もするが、写実的で2300年前のものとは思えないレベルの高さを感じる。中空の陶製だがどこで嵌め合いになっているのか解らない程で、技術的にも芸術的にも優れている。
よくできた模造品も多数展示されているが本物のほうが遥かに優れていると感じるのはなぜなのだろうか。本物が持つ作り手の熱意というか心意気をどうしても感じてしまうからなのだろう、細かいところを感じているようだ。感銘を与えるとはどういうことなのだろうか、やはり美はディテールに宿るということか、と再認識させられもする。
これだけのものが破壊されずに現代まで残ったというところにも驚きがある。当然盗掘があることを予想して巧みに埋められていたとしか思えない。秦そのものは全国統一を果たすはるか以前より十分大国であったため15年でも綿密に準備された壮大な陵を残すことができたということでもあるのだろう。
思ったよりもあっさりとした展示だった。何故か中国人の一団が見物に訪れていた。恐らく大宰府とパッケージでの観光ツアーなのだろう。中国人でも始皇帝陵の出土品現物はそんなには見る機会がないのかもしれない。
こんな風景を見ているとこの博物館の”アジア視点の博物館”という設立当初のうたい文句が真実味を帯びてきたと思えてくる。福岡というところは大昔よりアジアとの接点で生きているのだろう。
見終わっても色々考えが広がっていく、ケガで行けるところが限られるというのも存外に悪くない気がしている。
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