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2016年6月29日 (水)

怪しいメールと英国の没落と

今朝メールを開くと、昨日の晩遅く23時もだいぶ過ぎたころに自分から自分あての怪しいメールがniftyの受信ボックスに送られていて、zipファイルが添付してあるのに気づく。ちょっと怪しい。よくみると、nifty.co.jpとnifty.comの両方に同時刻に入っている、ますます怪しい。
ネットで調べると同様のメールが3月頃にやはりあちこちに送り付けられていて、こちらはトロイの木馬型のウイルスメールだったとある、今回も恐らくウイルスメールだろう。
niftyに特化しているようで持っている他のアドレスには送られてきていない。
何だか次第に危険が身の回りに迫ってきた感じがする。
カードで支払いをする度にカード情報が抜かれるかもしれないとの危うさをフッと感じることがある、段々それが大きくなってきたような気がする。怪しい雰囲気の店員相手にはカード決済をしたくないが、丁度手元に現金がない時にはしょうがない。
いつかはやられるかもしれない。危ない時代になってきた。


Uk 最近の気になる事件の中で、ちょっと衝撃的だったのがイギリスのEU離脱だ。誤った弁舌に誘導されたとの反省もあるようだが、これだけ高い投票率に基づく国民の選択とあらば、一種の錯誤があったにせよ明らかに重大な何かを現しているとみるべきなのだろう。それは何か。
大英帝国没落の最後の一撃と思う。イギリスの衰退は長く指摘されてきたが、ロンドンの金融が世界で重要な地位を占めるに至り、金融の力で国を支える、という形で弱体化した産業を存続させてきたと思える。しかし金融業から距離を置く人々には目に見える恩恵感を与え続けることができず、海外との競争に押され自国民の仕事を奪われて生活が苦しくなったという実感を多くの人に与え続けたように思える。その不満がEU離脱へ向かったと考えるのが妥当ではないか。
そう思うとこれは大英帝国が国民みんなにささやかな幸福感をもたらす力をもはや保てない程に没落したことを国民が明らかにしたととるべきと思える。
求心力が失われていることが明らかにされたととるべきなのだろう。
スコットランドは分離し、ロンドンもシンガポールがマレー半島から分離したように分離するかもしれない。上流階級による国家のかじ取りが限界に来たことを示しているとも受け止められる。英国は過去に西欧世界を支配したギリシア、ローマやスペインの道をたどっていくことになるのだろう。
残った世界をどう世界は運営していくべきか。


ひたひたと世の中の変革が迫ってきているようだ。10年後にはいったい何が起こっているだろうか。それはそれで面白いという気がもする。健康に生きて見届けねば。

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2016年6月26日 (日)

多様な価値と変わらないものなどない世界

英国がEUから離脱することになって騒ぎのようだ、それでどうした、とも思う、英国の没落が決定的になっただけではないか、それを国民自らが選択しただけではないか。栄えたものは自律的に滅んでいくというしかるべき歴史の歯車が進んだだけのように思える。


6月の中旬に宮崎に日帰りで行ってきたのが幾つか感じさせるところがあって、書き残しておこうと思う。宮崎へ行ったのは高校の修学旅行以来だ。
今回の目的は、当日午後に催される気象のミーティングと見学会への出席だった。新田原基地の気象設備見学というのが目玉で滅多にない機会だからと出かけた。

集合場所は宮崎県庁前となっていた。福岡からどうやって行けばいいのかとネットで調べると、飛行機を使う、新幹線で八代まで行って駅前から高速バスに乗る、福岡から高速バスに乗る、の3つが出てくる。列車だけで福岡から宮崎まで行くというプランは高くて遅く選択肢には入ってこないようだ。九州の鉄道網はそんなものなんだと改めて思う。ななつ星プロジェクトが成功を収めているのは、遅くて高い鉄道を、開き直って更にその方向へ目一杯突き詰めたところに魅力的な世界があったということなのだろう。便利さとは違う価値を切り拓いたということなのだろう。
ともかく、それぞれの費用と時間が気になるところだが、航空機使用で(一番安いチケットを使ったとして)8:10頃自宅発11:51目的地着で約12000円、新幹線+高速バスで7:42発12:23着で9880円、高速バスのみで7:16発12:26着で3900円となる。バスは遅れを考えて1便前にすると6:44発として飛行機より1時間半早く出なければならない。が、1/3の費用となるバスは本数も多くて魅力的に思える。当然のようにバスを選択した。飛行機かバスかという選択が現実的に出てくるところも九州の面白さともいえる気がする。

Miyaz3 当日になって実際に宮崎行の高速バスに乗る、満席だ、しかし窮屈でもない。熊本地震の影響がまだあって、長く通行止めだった高速道路の熊本・益城近辺では今も片側1車線の対面交通で路面も波打っていて渋滞する。しかしその他は普通に走れる。

東北大震災のような津波で根こそぎやられた風景は無いが、屋根のブルーシートが続いて痛々しい。
全ての乗客が宮崎まで行くのではなく、えびの高原から東に曲がったところの小林やその先の都城で結構降りる。ここらは高速バスが主要な日常的交通機関になっているようだ。鉄道網の発達した関東や関西とちょっと違う感覚がここにはある。
時間を気にしながら予定より20分遅れで宮崎に到着した。集合時間のおよそ7-8分前には集合場所へたどり着けて丁度よく見学会に合流できたがヒヤヒヤものだ。バスならではだが見方を変えれば遅く高いところに別の価値が見いだされた鉄道のように
このヒヤヒヤ感にも価値があるのかもしれない。

Miyaz2 宮崎県庁の前は大きなクスノキが街路樹に用いられている楠通りで日差しが強くても気持ちのいい通りとなっている。南国らしい配慮なのだろう。県庁は1933年に建てられた戦前の建築がそのまま使われており県庁としては全国で4番目の古さという。なかなか趣がある。財政難で建て替えが難しいということのようだが観光都市としての得難い景観の価値は十分に発揮しているように思える。
微かに記憶にあったフェニックスの並ぶ通りも健在で街そのものが他とは違うところをいくつも抱えているようだ、また落ち着いてゆっくり来たい気がする。多様な価値の姿を宮崎への旅では感じてしまう。

Miyaz1a 17時過ぎに会合が終わって宮崎駅前から帰りの高速バスに乗る。今度はガラガラだ。土曜の夜便というとこうなのだろうか。
途中でまた熊本で地震があったとの知らせが運転手に入ったようで、運転手から新たな地震による交通への影響が出始める前に出来るだけ早く移動したく最後の休憩場所は直ぐの出発としたいとの説明有り、これに乗客は協力して帰路を急ぐ。
地震の終息がまだ見通せないうちは熊本地震の震源近くを通る高速バスの乗務員にはいつも緊張が強いられているようだ。地震国でインフラの維持を必死の思いで担っている人たちが居ればこそこの国は平静を装うことができているのだろう。いつかはこの努力が限界に来る日が来るに違いない、そうやってこの国は変わっていくのだろう。


そもそもこの国はいつまで形を保てるだろうか、時々そう思う、精神的な意味ばかりでなく物理的地形的な意味でもそう思う。一億年の人類の時代があるものならばそんなものは直ぐにくるに決まっていると思うことにしている。長いスパンで見ると変わらないものなどない。大陸は移動を続け次の超大陸が生まれる姿がすでに合理的に予測されている。そんなものなのだろう。変わらないものなどない。

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2016年6月22日 (水)

イタリヤオペラを観る

福岡にも年2回くらいは海外からのオペラ公演があって、なるべく観るように心がけているが、少々値が張るのでいつも迷う。今回はイタリアの歌劇団によるプッチーニのラ・ボエームで、これはよかろうと出かけた。ローマ・イタリア歌劇団というスポレート歌劇場を中心に臨時編成された歌劇団で若い人が多いらしい。「ラ・ボエーム」は19世紀半ばのパリで青春を過ごすボヘミアンを描いたシンプルなプッチーニらしいストーリーで、特にイタリアでは人気の演目という、若い人が多いというのが丁度いいように思える。

例によって事前にビデオで予習する。今回はwowowで放送されたメトロポリタン・オペラ(MET)のライブビューの録画が手元にあったのでこれを見ておく。見たことのある簡単なストーリーなのLaboemで直ぐに頭に入るがMETのはカフェシーンでは2階建ての建物を舞台に造っておりエキストラのような登場人物も随分いる、大掛かりだ。これをどうやって海外巡業の舞台に現出させるのだろうかとちょっと気になった。
主役のミミ役は福岡公演ではキアラ・イゾットン(31)という近年頭角を現してきたソプラノ歌手が務め、他の都市での公演ではカルメラ・レミージョ(43)という少しは名の通ったベテランがミミを務めるところもある。無論自分にとってどちらも初めて聞く名前でしっかりした歌い手ならどちらでもいいが、演目から若さのあるミミ役に期待していた。

当日、席は結構埋まっている、仕事帰りの姿もみられる。幕が開くと出だしから歌声が良く通り迫力がある。去年見たハンガリーの歌劇団のフィガロより一回り声量が豊かなように感じる、やはりイタリアだ。
ミミ役のキアラ・イゾットンも声を低めるところでも雰囲気を保ちながらよく声が出ていてさすがと思わせる 。いい歌い手だ。ムゼッタを演じるサブリナ・コルテーゼも印象的だ、全体に若さがみなぎっていて感じいい。

気になっていた2幕のカフェのシーンでは地元のNHK福岡児童合唱団が20人くらいの集団で子役として出演して衣装も19世紀のパリらしく歌い演じている、違和感なく上手だ。

勿論、イタリア歌劇団の大人の合唱団も10数人出ていて合わせてにぎやかな雰囲気をうまく醸し出している。こういう演出もあるのか、と思ってしまう。それにしても子供たちの練習はどうしたのだろうか、連日のように移動する巡業公演だから福岡での合同の舞台稽古は1回できたかどうかということだろうが、スムーズにオペラに溶け込んでいる。調べると巡る各都市で同じようにそれぞれの地元の児童合唱団が参加して演じることになっている。ちょっと驚く。

さすがに2階建ての舞台までは作れず段をつけて階上を表現しているが、地元の子供たちの出演でにぎやかさはMETの向こうを張っているような気さえする。舞台装置もミラノスカラ座の美術監督をしていたソルマーニの制作によるものでちょっといい。全体にオペラらしい舞台が巧みにできあがっているようだ、さすが本場イタリアというべきか。

三重から始まって北陸・九州・関西・中部・北陸・関東と巡って11公演を16日でこなすという強行日程だ。よくやれる。
それぞれの各地の都市にこれを支えうるオペラ人口があるということになる、何のかんの言っても日本もいい国になった、素直にそう思う。最近はこんな風に思うことが幾つも出てくるようになった気がしている。このままこの雰囲気が未来に向かって伸びて行き続ければいいのだが。どうなるだろうか。

ともかく梅雨は本番を迎え今朝は朝から雷だ。こんな季節は室内で音楽を楽しみながらゆったりと過ごす時間がいい。

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2016年6月17日 (金)

梅雨の様々

梅雨空が続いている。
今年の梅雨の異変はまだ台風が1個も発生していないことに尽きる。
6月半ばを過ぎてこんな有様はあまり聞いたことがないがと思って少し調べると1998年は台風1号は7月9日発生、1973年は7月 2日発生だから20年位に1度はあるようだ、Anomp6132016 とんでもないというほどでもない。1998年は前年が強いエルニーニョが発生した直後で今回とよく似ている。多分エルニーニョの終焉と関係があるのだろうとは思うが具体的にどうなのか気になって海水温の状況や上空大気の状況を見てみるが、直ぐには 解らない。
この時期台風の発生源となるフィリピン西方沖の海水温は今年とりわけ低いということでもなくむしろ全体に平年よりやや高い。確かに昨年に比べ日本の南の北
Amehikaku_2緯10度あたりの雨域は昨年に比べ大分小さいようで衛星動画をみてもまとまるはずの雲がすぐに散って一向に成長していない。どうやら下降気流がこの領域にできているようだ。マレーシアやタイあたりの上昇気流がやや強まってそれが下降気流としてここらに降りてきたと考えるのが順当なのだろう(いわゆるウオーカー循環の強まり)。もっと平たく言えばエルニーニョ現象の盛衰が赤道を巡る圧力変動を生んだ結果ということなのだろう。
ともかく梅雨ではあるが台風が来ない分危機感がいくらか薄い。いいといえばいい。


この時期は年中行事のようにホタルを見に行くことにしている。博多湾にそそぐ那珂川中流域の中ノ島公園が見やすくて沢山出るのでこ今年もそこへ行った。真っ暗になるのは8時くらいからだが場所確保もあり少し早めに出かける。

川沿いのベンチを確保してHotaru5 暫く待っているとあちこちで光り始める。毎年同じことの繰り返しなのだが無論ホタルは入れ替わっていて飛び交う様も違う、同期して瞬くようになりそれを口に出して数えたりして楽しむ。何にも考えることがない時間がすこぶるいい。三脚に固定してシャッターを下ろしていると時折光るカメラの液晶の明かりを仲間のホタルとでも思ったのか一匹のホタルがカメラに近寄ってきて三脚に衝突する。ホタルは遊んでいるわけではなく子孫を残す相手を求めて光に近寄っているのだろう。なんだか申し訳ない気持ちになる。しかし梅雨の楽しみと言えばホタルだ。


戻ってテレビをつければ舛添騒動ばかりやっている。違法でもない些細とも思える昔のことをほじくり返して都政を止め挙句に都知事を罷免してしまうマスコミの無責任さとそれを仕組む見知らぬ人たちの存在を、ああこれがファシズムなのだと思う。反対意見を恐ろしいほどまでに押しつぶして吊るし上げている、冷静さがない。見るものに、いつ自分がその標的になるかもしれないその不安もどこかに抱えさせている。ナチス台頭の時も戦前の日本のマスコミのありさまもこうだったかと感じる。嫌な時代になった。

こんなことを感じさせるのもやはり梅雨のうっとおしさがなせる技なのかもしれない。

梅雨にはいつもと違ったり、いつもと同じだったり、はたまたとんでもない騒動が起こったり、そんなことを楽しみ嘆き過ごすのがいいようにも思えている。

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2016年6月 9日 (木)

見帰りの滝

日本の滝100選というのがあって、少し気になって選定の経緯をネットで調べた。
1990年に中央省庁の音頭の元、各地方自治体が推薦してきた滝の中から、勿論滝の研究家も1人入ってはいるが多くが特別滝に詳しいというわけでもないメンバーで選んだようでどうもうさんくさいところが感じられる。
九州では福岡と長崎が1件も入っていないが、両県には九州の他の県に較べていい滝が無いと言われればそんなことはないような気もする。どのような基準で選んだのだろうか。選定した「日本の滝選考会」はもう解散していて、選定基準はネットで大分探したが見つけることができなかった。
ともかく100滝のうち実際に見たのは10にも満たない。100名山は3分の一は少なくとも登っているのとは大違いだ。100滝も少しは見てみるかと近い唐津の「見帰りの滝」を見に行った。佐賀で選定された2つの滝のうちの一つだ。
Mikaeritaki1 福岡からは都市高速から西九州道を経て1時間半くらいで到着する。アジサイ祭りが始まる寸前でまだ交通規制はなく楽に行ける。
途中の無料駐車場の案内板を見てここに置いて歩くのかと沢に沿った遊歩道を歩き始めた。後から来た車はもっと上に行っているようでまだ上にも駐車場はあるようだ、しかし沢沿いの道も悪くない。歩いているとオオルリの声も聞こえてくる、ここらで繁殖しているのだろう。咲き始めたアジサイも色々種類があるようで楽しい。
30分位のんびり歩くと滝が見えてきた。
2段になっているようで下段の滝だけでも落差3-40m位あって十分見ごたえがある。
結構近くまで安全に寄れる。観光バスも来ているようで団体がぞろぞろ歩いていたりもする、観光地だ。
なかなかいい滝だ。滝の良しあしは何で判断するか、まずは水量も含めた大きさがあるように思うが、この滝は上部も含めた落差とそれを見渡せる景観かと思う。
ごうごうという音で少々人がいても滝と直に向かい合っている気分になるところが滝のAjisai いいところのような気がする、暫く雑事を忘れて茫洋としていられる。
またもとの遊歩道を戻って昼のおにぎりを食べた後クルマで戻る。
半日くらいの短い旅が楽でいい。

100滝の中ではこの「見帰りの滝」は見たインパクトとしては中くらいとの評価が幾つかのページで見られる。実際に見ると、北関東で見てきた100滝に入っている霧降の滝や華厳の滝、吹き割の滝、袋田の滝などに比べての見劣り感は否めない、更に、100滝に入っていない奥日光の竜頭の滝や湯滝より上回っているかと言われればそうかな、とも感じる。難しい。なるべく全国に散らばるよう選定しているとの政治的意図はどこか感じざるを得ないようだ。
100に限らずもっと本質的に滝の楽しみ方や文化を掘り起こすのが環境を傷めずに観光資源に光を当てていく役所の大事な役割のような気もしている。
結局は自分で直に見て感じるしかない、ということだろう、何でもそうだ。


ヨーロッパには緩い川が多く日本の河川はそのものが滝と言ってもいいと明治時代日本の河川事業の技術指導をしたオランダのデレーケが語っていたようで、日本のいたるところに滝がある。100滝といわず、滝だらけのこの有様も世界に誇れる日本の景観の一つなのかもしれない。
考えを巡らしていくと、100滝を選定して滝の良さを矮小化する役人の発想の限界に引きずられてしまうのは嫌だな、なんとはなしにそう思ってしまう。

この夏は滝を求めてあちこちで出かけてみるのも悪くない、そう思い始めている。

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