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2016年10月27日 (木)

グルベローヴァのノルマ

秋のオペラ公演の時期となり、昨日は来日しているプラハ国立歌劇場の「ノルマ」をアクロスに観に行った。
エディタ・グルベローヴァというベルカント・オペラの当代きっての歌い手といわれるソプラノ歌手が主人公ノルマを演じている。演出は菅尾友といNorma う日本人で蜷川幸雄、野田秀樹、宮本亜門などの下で助手を務め現在はベルリンで活躍とある。舞台はローマ帝国時代だが、メトロポリタンオペラで時折見かける現代風の演出となっていて新しさがある。切符はアクロスでは珍しくも完売で、観客の期待も感じられる。

勿論「ノルマ」というオペラは知らない、少しばかりはと事前に予習する。
紀元前50年頃のローマ帝国の支配下となったガリア地方が舞台で、ジュリアスシーザーがガリア戦記を書いたその直後の
にあたるようだ。ガリア地方とはイタリア北部からフランスまで広がる地方だが被制圧者となったばかりという設定からフランスのどこかとすればいいように思える。ドルイド族とオペラの字幕では訳されているがドルイドはガリアのケルト人社会の祭祀のことで、ドルイドの教えを中心にした集団をここではドルイド族と訳出しているように思える。樫に寄生するヤドリギを神聖なものとみなしており、オペラの中でも摘み取ったヤドリギが信仰の対象となっている様が演じられている。
このオペラはイタリアのベッリーニが1831年に作ったものだが台本はドニゼッティの愛の妙薬などを書いた当時の流行の台本作家フェリーチェ・ロマーニの手になっている。ロマーニはフランス文学や神話・古代遺物に造詣が深く、ノルマを生んだバックグラウンドがそこらにあるようでもある。
ドルイドの教えに従う巫女の長であるノルマは征服者ローマの地方総督ポリオーネとひそかに結ばれ子供までもうけていたが別の巫女に愛を語るポリオーネの心変わりに怒りドルイド族にローマへの反乱を呼びかけ自身は真実を露わにして火刑台に上るというのが、荒っぽいストーリーだ。
「ノルマ」は19世紀前半にイタリアで作られたいわゆるベルカント・オペラの一つとされる。ベルカントとは、知らなかったが、高度な歌唱装飾を伴う理想的なイタリアの歌唱法であり、ファルセットと実声を巧みに取り混ぜた圧倒的な歌唱法とされる。ワグナー等のストーリーで押すこれ以降のオペラと対比してベルカント歌唱中心のオペラを
ベルカント・オペラと呼ぶようだ。第1幕で歌われる有名なアリア「清らかな女神」(Casta Diva)はあのマリア・カラスをして「全てのアリアの中で最も難しい」といわしめたと伝えられる。

この「清らかな女神」を完璧に歌える歌い手としてマリアカラスの次にあげられるのが今回登場のグルベローヴァだ、コロラトゥーラの名手とされる。これは貴重な機会だ。ここまで調べると、これは買っておいてよかったこの切符ということになる。

グルベローヴァという歌い手も全く知らなかったが調べると1946年12月生まれの69才、年末には70才になるオペラ界の大御所だ。こんな歳でコロラトゥーラなどまさかと思うが、まったく歌声に衰えはない、今年5月のベルリンでもノルマで大絶賛を浴びている、というから驚きだ。しかし老いからは誰もが逃れられない。今回の日本公演が衰えないその実声を聞く最後の機会かもしれないとも思ってしまう。
色々な期待をこめた公演の幕が開く。今回の日本ツアーでグルベローヴァがノルマ役で登場するのはここ福岡が最初のはずだ。出来や如何。
1幕の始めからグルベローヴァが登場し程なくアリアCasta Divaがはじまる。歳を全く感じさせない、歌うようにという言葉通りの歌唱だ、高音の転がりからおだやかな呟くような中低音まで流れるようにホール一杯に歌声が響く、これはすごい。顔を双眼鏡で見ると歳を感じる、どう見ても幼い子を抱えて愛に悩む女性という役どころの風情はない、これはしょうがない、でもオペラは歌唱が勝負だ、歌で満たされる空間に身を置いている幸せを観客に与えうるだけで十分に素晴らしい。
巫女役のズザナ・スヴェダもグルベローヴァとの2重唱などで十分な力量を示しており、その他登場する歌い手、これを支えるプラハ国立歌劇場楽団もそれぞれに欧州音楽界の実力を見せつけているような圧倒される感じがしてくる。
アリアが終わるたびに客席からもブラボーの声が何度もかかる、そう言いたくなるコンサートだ。

いい気分でホールを後にする。それにしても観客に女性が多い、7割位が女性のようにみえる。そんなものかもしれない。舞台文化は昔から女性が支えてきたようにも思う。老いを見せない
グルベローヴァばかりでない、女性の馬力に感謝せねば、そんな風にも思って家路についた。

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2016年10月19日 (水)

感動を失いつつある日々と

福岡マラソンというのが11月13日にあってこれに5.2kmのファンランで参加することにした。5kmならこれは走れるだろう、街中を走るのは面白いかもしれない、そもそも市民マラソンの雰囲気とはどんなものだろうか等々が興味の焦点だが、とにかくやれるうちにやれることはやってみよう、くらいの感じだ。
次第に日が近づいてくると本当に走れるだろうかと気になりだしてトレーニングとして近くの公園を周回して5kmを走っている。基本的に心拍数をモニターしながら走るのが自分のやり方なので当面心拍数130となるように走っている。
Running 走ってみると大体分速100m位となって50分くらいで走れる。ゲートが閉まるギリギリのスピードだがとにかく走れるので一安心だ。ラップを見ると自分では気が付かないがラップを重ねるごとにゆっくり速度が落ちてくる。運動不足なのだろう、まったく体が鍛えられてない感じがする。

当日はどんな感じになるだろうか。気象庁の1か月数値予報では高気圧が張り出し始めて一応晴れそうだが、どうなるか。雨なら棄権かとも。弱気なところはなかなか去ってくれない。


10日ほど前、新福岡古典音楽祭の催しの一つストラディヴァリア・ナント・バロック・アConcert2 ンサンブル のコンサートを聴きに行った。
福岡で毎年開かれている音楽祭だが、ヨーロッパの古典音楽は端正でちょっと面白い気がしている。
今年はフランスバロックがテーマのようだ。
ストラディヴァリアの名前からストラディヴァリウスを並べるのかとも思ったが楽器の説明など一切ない、いい音色だがストラディヴァリウスかどうかはよくわからない。ネットで調べても判然としない。想像にお任せしますといった風情がフランスらしいといえばそうでもある。
いかにも宮廷音楽の響きがある、眠くなる。ジャン=フェリ・ルベルのバレエ音楽「四大元素」が演目にあり、不協和音で始まることで知られているようだがこれも心地よく聞けてしまう、こういう雰囲気だったのだフランス革命前のフランスはと思う。モーツアルトがフィガロの結婚を書くほんの10年位前の曲だ、こんな世界は長くはもたない、そんな気もする、虚飾に満ちたとまではいかないまでもどこか空々しいきらめきがある。音楽は正直だ。

なんとはなしに感動がない。

Cyoujyuu 先週、鳥獣戯画展が国立博物館で開かれているというので見に行った。
平日だが人が多い。
列が長くじりじりと進んでいく有様なのですいているところから飛ばしてみて、列が動かないところは2列目からとやや離れてみる。
国宝だが有名なウサギのところはふーんというくらいで全く感動がない。確かに漫画的に生き生きしているがこれ位なら絵師なら描いて当然くらいに思ってしまう。絵の内容そのものに大した興味がわかないということもあるのだろう。
坊主が修行しているさまを茶化したように書いているあたりは人間的で面白い。新聞に使われる政治漫画そのもののような気がする、人のやることは大して進化していない、そういう意味ではすごいというべきなのだろう。

それにしても近頃は感動するということが少なくなったように思う。先月の現代俳句の選句では1000句くらいある投句に1句も感じるものはなく選句できなかったということがあった、なんだか感じなくなってきている。


以前のように知らず
らずのうちにまた時間追われている生活なってきたからではないか、手で物を作ることをしなくなったためではないか、やはり歳のせいだろうか、いろいろ考える。暫く中断していた梅の絵を仕上げることから始めてみよう、そんなことを思っているが、どうなるか。

福岡マラソンですこしでも感動があればよいのだが。そんな風にも期待して時々走っている。

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2016年10月15日 (土)

ピケティの21世紀の資本

ピケティの21世紀の資本の市立図書館の貸出順番がやっと回ってきたので読んでPikety いる。申し込んでから1年半は経っている、あんまりだ。

もう流行は過ぎた感じもするが、流行作家ではあるまいし真実をついている本ならば1年半遅れでも十分面白いはずだ、と気を取り直して読んでいる。
600ページ位あって結構な厚みなので散文的なくどい感じのところは飛ばし読みする。なんだか思うところを書きたいように書いていて論文というようでもない。
しかしよく調べている、式がすんなりは頭に入らないし、何故というところが散文的なのでどうしても、そうかな?、と思ってしまうが、ほう、と思うところは幾つもあって刺激的ではある。

例えばアメリカ・イギリスなどでの格差社会の拡大の要因の一つに高額の役員報酬がある。これは結局は役員自身が株主や監査委員会を大変な努力をしていいくるめて報酬額を引き上げているのだが、累進税率の最高税率が非常に高い間は報酬の引き上げは収入増には殆ど意味がなかったのでそんな努力まではなされなかった。最高税率が1980年代以降急速に引き下げられるようになって、役員報酬の大幅に引き上げに努力が注がれ、高額報酬が実現する流れになったという。エッ、そういうことだったのかと思わせる。
調べると最高限界所得税率の低下とトップ1%の国民所得に占める割合の増加には明らかな相関があるという。何ということだろうか、お手盛りで格差拡大は進んでいたということだ。こういうことなら累進課税を強めることで少なくともこれ以上格差を拡大することは防げそうだという主張には賛同を覚える。

ともかく、GNPの成長率が低くなると資本を持つことによる利益の比重が大きくなって持てる者は益々相対的に豊かになって格差は広がる、というのが本書の主張の主な部分のようにみられるが、それを取り巻く世界経済の歴史的な解説あるいは現状の分析がなかなか面白い。各国の税務当局の統計値が使えるようになってこれを丹念に調べて数値的に主張を確かなものとしているところが説得力がある。

大体読み終えた。

市の図書館から借りた本は2週間で返却するが、放送大学の受講生ならこの本のように放送大学の図書館にある本はリモートで自宅のパソコン上で読めるし必要個所のコピーもパソコンで得られる。パソコンで厚い本を読むのはしんどいが本として大体読んでいれば読み直したり深読みするために本を買わなくても困らない。こんな時は放送大学の講座をを一つだけでも受講していれば色々メリットがあることを思い知らされる。便利な時代になった。

便利さをプロダクトの一つの指標にできるなら、また新しい経済学も立てうるのかもしれない、ふとそんなことを思った。パソコンで欲しいものが楽に買えるとか、コンビニが近くにあって日常の用はたいてい済んでしまう、とか、本が自由に読める、とかそんな風に生きていくのが楽だということそのものが資産の一つではないか、誰かがそれを巧妙に指標化し数値化すれば新たな価値の見方が広がるかもしれない。
豊かさとは何なのか、それに焦点を当てた経済学もあるのだろう、そんなことも思えてくる。色々思いが広がる。いい感触だ。


こんな風に思いが拡散していくような本はやはり面白い本といえるようだ。

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2016年10月11日 (火)

今右衛門・柿右衛門展

13代今右衛門・14代柿右衛門の展覧会が福岡三越で開かれているというので見に行った。
,有田で磁器を作り始めて今年で400年ということの記念イベントの一環らしい。自分Tenjikai の中で名前だけが上滑りしている有田焼の今の姿を見定めたいという気持ちがある。この展は今年の正月に日本橋三越で開かれた後7月には広島三越で開かれていたものが福岡までやっとやってきたということのようだ、大阪はとばしているが大阪には三越が無くてこうなったのだろう、所詮百貨店の催しだといえばそうかもしれない、でもとにかく見たいという衝動があった。

結構人が多い。確かに素人目にも、これは、という作品が並んでいる。

13代今右衛門は襲名前には有田とは思えない全く現代的な焼き物も作っていたのImaemon1
が展示されていて目を引く。1975年に襲名後は伝統を引き継ぎながら、吹墨、薄墨 という技法を開発するなど新しい現代的な境地を開いていてこれまでの有田とは異なる新鮮な感じを見るものに与える。
14代柿右衛門のほうは追い求めたリアルな草花のスケッチをもとに濃淡を入れた草花模様を構築している。こちらも濁手と呼ばれる乳白色の白地の伝統の上に現代に響く有田の姿を求め
続けたようだ。それぞれにさすがと思わせる。
400年も続く伝統となればそれぞれに伝統の重圧はあろう、素直に事物と向き合い詳細なス
Kakiemon1ケッチを繰り返し、自分なりの境地を開いていく、大変な仕事だとうかがい知る、それが心に響く。

13代今右衛門は2001年75歳で心不全で亡くなり14代柿右衛門は2013年78歳で癌で亡くなっている。天寿を全うとまでは長生きしなかったようだ、背負った重荷というものがあったのかもしれない。

近頃はものに心を動かされることが減ってきたと感じている。生涯をかけた作品を見る、こんなことでもしないと心が響いてくれない、思い返せば、見たいという衝動はこれだったのかもしれない、そんな風に思っている。

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2016年10月 7日 (金)

学ぶことが刺激的で

放送大学で半年ほど地球史を学んだが、下期はこれという興味を引く講義が大学院には見当たらず、そうかといってやめてしまうのもなんだかつまらなくて学部のjavaプログラミングの講義をとってみることにした。何かの役には立つかもしれないし放送大学でのプログラミングの講義とはどの程度のものか見てみたい気もした。
9月下旬に申し込んで払い込みは9月末日となったためIDが送られてくるまで時間がKumak 少々かかる。丁度隙間ができたこともあり、8月頃から送られてきていたedXの隈研吾の建築の講義を集中的に見てみた。edXはMITが始めた無料の大学の講義でその後各国の大学も参加して世界的広がりを見せている。隈研吾の講義は日本語の映像なので、畑違いでも視聴に困難はない。英語訳が画面に出てshort testの設問も英語だが4択で難しくもない、しかし時々間違える。
Four Facets of Contemporary Japanese Architecture: Theory というのがタイトルで現代の日本の建築家の系譜を丹下健三以降の世代について解説してくれる。丹下健三を第一世代として隈研吾のいる第4世代までの建築家の考え方の変化を建築家にインタビューしながら明らかにしていくという組み立てだ。磯崎新や香山、藤森、大野、瀬島のインタビューなどもあって戦後の建築の考え方の流れがやっとわかった気がするところが面白い。

いくつも気になる言葉が出てくるが、中でも香山のインタビューで出てきた丹下健三から教わったものそれはnothingだった、というくだりが心に残る。学生の期待をよそに丹下は講義ではまともな建築の考え方は一つも教えてくれなかったというのだ。その時代がそうだったのかもしれない。丹下はリアルなプロジェクトに邁進していて教育には熱が入らなかったようだ。香山は東大を卒業後米国に留学してkahnの教えを受けた、これは日本の大学とは全く違い様式の歴史を背景にした理論で衝撃的なリアルな講義だったという。

nothingだったにもかかわらず丹下の仕事は続く世代に極めて大きな影響を与えた、それはインタビューされた建築家いずれもが認めている。教育とは結局そういうことかもしれない、事実で見せる、作品で見せる・考えさせる、nothing それはそれで意味があった、そんな風な言い方を香山もしている、そういうことなのだろう。

なかなか知的な刺激を受けるレクチャーだった。仕事という ねばならない連鎖から解き放たれた後は、やはり学び続けること、これが一番面白いのかもしれない。

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