ボブディランが
まだ安定した冬型にはまらずに周期的に暖かくなったり冬の嵐が来たりが繰り返される。やっぱり暖冬なのだろうか。
ボブディランがノーベル賞の文学賞をもらって、そういえば昔少しはのめりこんだ時があったがと手持ちのレコードやCDを聞き直したり、カセットテープを探したりしている。カセット
テープはいくつかあったはずだが見つからない、引っ越しの時にカセットはだいぶ捨てたがこれに混じっていたのだろうか、確かに引っ越すときはもう過去の人だからという思いがあって引っ越して直ぐに福岡公演がたまたまあったのだが聴かずじまいとなってしまった記憶がある。
ノーベル文学賞とはまさかと思った、まさか、ということがよく起こる年だ。確かにターニングポイントの年かもしれない。
立て続けに放送されるボブディラン特集番組を見たり、こんな本があったのかと自伝を図書館から借りてきて読んでみたりもしている。
昔の印象は、ぶち壊れそうな言い回しと肺の奥のほうから出てくるような歌声、歌に意味なんかない、意味がないところがいいというものだった様に覚えている。
ノーベル賞だから選考委員会は大きな意味を認めたのだろうがそこのところが今一つ誤解があるのではないかとも感じている。時代に影響を与えた詩であり詩を響かせた歌であったことには違いないので確かに村上春樹がもらうよりは意義深い判断かなとも思うが、文学賞か、とはどうしても思ってしまう。。
改めて聞き直して、詩の意味を追いかけてみても、この想いにそうは変わりはない。幾分わかりやすい歌もあるが Gates of Eden のように語呂はいいが細かく理解しようとしないほうがなんとなく雰囲気が分かるというものが多いような気がしている。ボブディラン研究などとはやめてほしいそんなものじゃない、自分も解っていない、本人も何度もそんな発言をしているようではある。その意味では変な受賞であることは間違いない気がする。
自伝にはプリンストンで名誉博士号を受けるくだりが出てくるがその式典の場違い感、それが今度の受賞の対応にまでつながっているように思えてくる。思い込みの世界に巻き
込まれたくないという気持ちがそこにはあるように思える。
自伝はよく書かれていてとてもポップスターの自伝とは思えない。情景のディテールまで書き込まれていて創作のようにも見えるが内容全体は、関係した人の証言がいろいろ出てくるスコセッシュの作ったドキュメンタリーと較べてみても本当のことを
描いているように思える、不思議な自伝だ、ここらあたりは文学賞らしいといえばそんな気がしなくもない。
テープに友人のレコードから録音しておいたはずの”追憶のハイウエイ61”は見つからないので、新たにCDを買いなおしたりついでにノーベル賞受賞決定会見でスエーデンアカデミーのSara Danius事務局長が説明してた(薦めていた)Blonde on Blonde のアルバムを買ってみたりしたがいずれもソニーの出している新品で音が良くて解説と訳詞もばっちり付いていて1000円なのには驚いた。随分なデフレだ。確かに時代は変わっている。歌の通りだ。
そういう風にとらえるのがディランにふさわしいように思える。
このところボブディランばかり部屋に流している。1960年代から1980年代の時代が思い出されてくるが振り返ることはあまり好きでもない。訳詞を見ながら でも分からない と思いながらそれでも伝わるものを受け取っている、その感じが何とはなしにいい。
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