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2017年1月31日 (火)

トランプ旋風と文化遺産と

トランプ旋風が吹き止まない。これまでのアメリカが持っていた、善意を押し付けるようにして力を振りまくその姿を捨て去ろうとしているようだ。

メキシコ、カナダを従えた北米の王者がメキシコ、カナダに怯えて壁を作り自由貿易をやめるという、縮こまろうとしている。そんなに情けない国になることをアメリカ国民が選択したのだからしょうがないといえばそうだ。これまでの姿が保てなくなったら捨て去るほかないということだろう。そうするにふさわしい田舎者を選んだのだろう。


先日、筑後川中流の原鶴温泉を訪れたついでに浮羽付近の文化財は、と少し回ってUkihachizu みた。古い街だ。

浮羽の地名の由来は日本書紀に記されていて、この地への第12代景行天皇巡幸の折の逸話に基づくとされている。恐ろしく古い。少なくとも日本書紀がまとめられた8世紀以前に街が形成されていたのは明らかなようだ。
江戸時代、天領日田と久留米を結ぶ街道が筑後街道と称され筑後吉井や浮羽を通っていた。日田から更に東へは中津に抜ける日田往還で瀬戸内に出ている。

日本書紀にうきはの名が出てくることから考えてYosii1 も、ずっと昔から有明海沿岸地方と近畿を結ぶにはこのルートが用いられていたと考えることができそうだ。

筑後吉井には街道沿いの塗家造の街並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

塗家造とは蔵屋敷ほど壁は厚くないが外壁を土塗りの白漆喰仕上げとして木部を覆い耐火的といわれる町屋建築で近世初頭から用いられた様式という。
訪れると、想像した以上に白壁の建物が続く。関東では栃木の街の白壁の景観が知られているが、ここはそれよりはるかに白壁の家の数が多い。
明治初期の大火で街が焼けそのあと塗家造りの丈夫な家立てられるようになって白壁の街が形成されることになったとの説明がある。通りはいまだに主要な道になっているのYosii2 でクルマの交通量が多く、立派な街並みだがゆっくり散策という風情でもない。ちょっとおしい。
公開されている2つの屋敷の内部も見て回る。鏡田屋敷といわれる江戸末期から明治にかけてつくられた屋敷では、よく見る旧家の形だが2階から見える入り組んだ屋根瓦の景観が重層的でいい。

確かに木造の並ぶ日本の街道の風景は、150年くらいもてば立派でそれ以上は火事で焼けたり朽ち果てたりで、石造りのヨーロッパの古い町並み景観のようにはどうしてもいかない。しかし今残せるようにしておけば100年後200年後には重々しく歴史を伝える景観となるのだろう。そう思えば進行形の歴史保存を眺めるというのも意味があるような気がする。

もう一つ近くに国指定重要伝統的建造物群保存地区とし新川田篭(たごもり)が指定Tagomori1 されているのでこちらにも足を延ばす。こちらは筑後街道から南にそれた筑後川支流隈上川沿いに展開している。

クルマで走っていくと途中に説明板があってそれとわかるが普通の山村・農村風景のように見える。棚田が石造りなのは立派だが、どこが国指定の建造物群かと思ってしまう。更に走ると三連の茅葺農家が現れこれがこの建物群の中で重文指定となっている平川家住宅のようだ。立派な造りでこれは確かに重要文化財という気がする。室内照明が落とされていて引き戸を閉めると暗くHiyabayashi1 てよく見えないが、そもそもがこんな明かりの家だったのだろう、かえって雰囲気が出る。古代より人は長く薄暗がりの中で生き延びてきたという歴史を感じる。
それにしても平川住宅よりほかは印象に薄い建物群だ。白壁通りとは好対照だ。
棚田のつづく山間の普通の集落が貴重な文化遺産として保護される、そんな時代になったのだ、そう思う。普通のように見える景色が次々と時の流れで消されていHiyabayashi2 く、そんな時代への危機感がこの集落の文化財指定を生んだのだろう。


何を残して何を捨て去るか、どこへ行ってもいつになっても、その決断から人は逃れられないのかもしれない。そんなことばかりを心に刻む日々が過ぎる。

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2017年1月25日 (水)

朝倉が邪馬台国かもしれない

寒い朝だ。予定より幾分寒い。中国地方よりも九州が寒い、大隅半島まで‐6℃だ、こんな寒さは珍しい。午前3時のsynopから日本近傍の地上の気象データを図にしてみるとなんとなくわかってくる。朝鮮半島からの寒気が地表を這うように九州に出っ張ってきているようだ(左の図)。5000ftの温度図(右の図)ではその感じはにじんでこない。
やはり九州の気象は朝鮮半島の影響が大きい、また感じてしまった。

2017012503 20170125031500







先週、正月も中旬となってどこか温泉にでもと、朝倉の原鶴温泉に出かけた。福岡市から高速で行くには近すぎるということもあって太宰府から朝倉街道を走ってみる。何とはなしに歴史を感じる道だ。
邪馬台国朝倉説というのがある。走っていると確かに何と読むのだろうと思う古そうな地名が目に付く。
Asakuramap





Chimeiyamato Chimeiyasu帰って
邪馬台国=甘木・朝倉説の安本美典氏の文をnetで探して読んでみる。

朝倉周辺の地名は風土記などにもあるようで古くからの地名が残されていることは間違いないようだ更に大和盆地の地名と朝倉周辺の地名に繋がりが読める。(添付は安本美典氏のシンポジウム資料より転載)。

氏は古事記に記載された高天原こそ邪馬台国であり九州の朝倉付近であったとしており、高天原の安河を朝倉の夜須川とみる、現地を走るとさらにはこれを現在の筑後川とみなしても成り立つようにも思える。

大和に似た地形、吉野ケ里にも近く、鉄器も多く出土し、弥生時代からここに文化の集積があった、それが東へ移動して神武の東征になったと考えるのは自然な考えのような気がしてくる。
耕作可能な平野の広さといい、交易にも都合がよく、海から適当に離れれていて侵略に一定の安全性が保たれる点といい、九州で国の中心となるほどに条件の揃ったところといえばこの辺りから吉野ケ里くらいまでに広がる有明海北部沿岸一帯の平野となるように思われる。九州に邪馬台国があったのならここらだろう。もう少しこのあたりを調べてみようかとの気がしてくる。

古事記にあるイザナギ・イザナミが大八島の次の6島の国つくりで最後に作ったは五島列島の南にある男女群島と比定されている。古事記が書かれた昔から九州の西の端のこんな小島が注目を浴びていた、読み直してみると驚きが多い。九州の古代文化の更に向こうには朝鮮半島や中国があったのだろう。

いずれにしても日本書紀・古事記に出てくる九州の記述の多さは隠しようもない。


原鶴温泉のホテルには韓国のツアーが少なくとも3つ来ていた。温泉で福岡から近くキャパシティもあるがやや旧式化したホテルにとってはこれがビジネスを大きく支えているのだろう。

そういう位置関係なんだ、韓国とも、中国ともうまく和解できるだろうか、トランプが(はからずも)そのように導いてくれるだろうか。トランプの話題ばかりのCNNを流して見るともはなしに眺めていると、今年どうなるか見ものになってきたようにも思えている。

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2017年1月17日 (火)

恐竜と鳥

ひょんなことから、小さい子供たちに恐竜と鳥の話をすることになって、調べている。
色々驚くことに行き当たる。
まず、小さい子供はもはや鳥が恐竜のなかまであることは当たり前のことになっているらしいというあたりだ。
20年くらい前あたり正確には1996年になるが、中国で羽毛のついた恐竜シノサウロプテリクスの化石が発掘され公表された。脆い羽毛が化石として残るのは難しく中国奥地の条件の良いところからやっと発見されたということのようだ。これ以降鳥は恐竜の一種であるとの考え方が学界の主流となり次第に図鑑や読み物はこの線でSisocyokaseki 説明されるようになってきている。少なくも中学生以下の子供ははじめからそのような説明を受けている。子供のほうが進んでいるようだ。

ジュラ紀後期の1.5億年前ころの始祖鳥の羽には既に現在の鳥と同じように複雑な微小構造を持つ風切り羽がついていた、ということはもっと前から羽毛は進化してきたことになる。
鳥ならずとも中空の骨を持つ恐竜や、鳥と同じように気嚢を多数持っている恐竜化石も見出されてきているようで鳥の形態に進む遺伝子を恐竜は抱えていたようにも思える。
最初の恐竜「エオラプトル」の化石は南米で2.6億年くらい前の地層から見出されており、始祖鳥は恐竜時代の丁度真ん中ごろに出現していることから考えると、恐竜ははじめから鳥になる形質を内在していたのかもしれない。今ではもっとも進化した恐竜の形態が鳥であったと65achikyuzetumetua 考えられているようだ。
そう考えていくと6500万年前に起こった大隕石の衝突によって引き起こされた絶滅期に鳥以外の恐竜が死に絶えたのも、最も進んだものだけが残りえた、ということかもしれない。それにしても哺乳類やワニ・トカゲは生き残れたのに小型の恐竜まで含めて恐竜の仲間は鳥以外この時すべて死に絶えたというのはやはりいまだに腑に落ちないところがある。

まだまだ調査中だが小さい子供に話すには随分と難しい説明になりそうだ。どうなることだろうか、少々胃が痛む。しかし難しいことに行き当たるのは何であっても刺激的で、楽しいような気もしている。

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2017年1月11日 (水)

フーシェと民主主義と

年末からずっとたちの悪い風邪に悩まされダメージが心臓に来ているらしく酒も飲まずにおとなしくしていた。殆どどこへも出かけられず運動不足となって寝付けないような感じになってもいた。
こんな時には、読みにくい本が一番と、そういえば少し前に読んだ何かの本で、シュFushe テファン・ツワイクの書いたフーシェの伝記がお薦めだ、とあったのに従ってAmazonで古本の文庫本を買っておいたのを見つけ出してきて読んでいる。字で埋め尽くされた本だから寝がけに読むには最適だ、確実に寝付ける。

読みだしてみると確かに面白い人物だ。1789年に始まったフランス革命の始めからナポレオンが廃されてルイ18世が復位した後までも激動の時代の殆どの期間に政治の中枢に立ち続けカメレオンのように裏切りを繰り返した人物だ。
ある時は過激なジャコバン党の先頭に立って大量処刑を指揮し、警察と創設した秘密警察を意のままに操り、ある時はロべスピエールにより断頭台にかかる寸前で逆にロベスピエールを追い落とし、ある時は共和国政府にあって巧みにナポレオンをパリに招き入れその主要な大臣となりそして百日天下も終わりワーテルローに敗れたナポレオンを送り出した後の政権を握り、ルイ18世を迎い入れまたその大臣としての立場を得た。最後は王政復古が固まった世の中にあって、ルイ16世とマリーアントワネットをギロチンにかけた評議で死刑に賛同した罪を二人の間の実の娘であって辛くも生き延びたアングレーム侯爵夫人マリーテレーズに厳しく糾弾され、ついにフランスより国外追放となって北イタリア・トリエステの地で寂しく果てることになる。晩年は裕福であっても誰にも相手にされず厳しい時を過ごしたようだ。

どんな努力をしても裏切りをしてもその瞬間のマジョリティにつく、それがフーシェの生き方を貫いていたと読める。

民主主義であれポピュリズムであれ、多数が正義となる政治メカニズムは結局はこんな人間を求めていることになる。
ワイマール憲法下、ナチスも民主的な選挙で第一党となったことを思い合せれば、民主主義だから結果は常に正しい、ということはあり得ないことだということを肝に銘じておくべき、と感じてしまう。

どうしても米大統領選挙のことを思ってしまう。トランプ政治はどうなってしまうのだろうか、就任前のツイッター政治を見る限り、分別、思いやりとはかけ離れた政治が行われようとしているようだ。
アメリカに未来はあるのだろうか。

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