芭蕉の句碑が
俳句が流行ってきているらしい。現代俳句のネット投稿でも毎月の投稿数が5句から3句に減らされた、毎月の投句総数が1200句をこえるようになってきて選句の負荷が高すぎるためらしい。それだけ参加する人が増えたことになる。
今やサクラも終わってつつじの季節となった。
2週間ほど前 豊かな桜の風景を求めて うきはの流川桜並木を堪能した後、史跡でも、と直ぐ近くの日岡古墳・月岡古墳に寄った。前もって調べていたわけでなくたまたま目について何だろうというくらいの好奇心だ。
朝倉・うきは地区は日本書紀にいくつかその名が出てくる場所で、邪馬台国・朝倉甘木説の現場でもあり、古墳それぞれに大和朝廷以前の古代史への興味が掻き立てられる。
若宮神社の境内にある2つの前方後円墳で、古墳時代中頃6世紀ころのものらしい。
説明看板を読むと日岡古墳は幾何学模様の描かれた装飾古墳として、そういえばそんな写真をどこかで見たことがある、という類の有名古墳だった。後円部の上部の天井板が落ちていてその上に小屋が立っており、上から覗き込むようにして装飾画を見ることができるらしいが、第3土曜日にそれも5日前事前申し込みでしかみることができないようだ。とにかくこの日は観れない。
まあこんなものかと月岡古墳に回る、こちらは装飾古墳ではないようで内部を見ることもできず、上に上がって歩き回って戻ろうとすると芭蕉句碑が目に入った。
花本大明神
百年乃けしきを庭乃落葉かな
と刻んである。
芭蕉が九州で詠んだ句はないはずだがと句碑の裏に回ると嘉永2年建立の字が見える、1849年造ということになる、幕末だ。
どういうことだろうと戻ってネットで調べる。
花本大明神とは芭蕉が150回忌の天保14年(1843年)に二条家から与えられた神号とある。これを記念してこの時期に全国に句碑が建てられているようで福岡県内にも句碑が75もあるという。句は彦根の明照寺に門弟の季由を訪れた時に詠まれたものらしい。(潺々 - 芭蕉・五老井の流れ - 石川柊著 による)。
そもそも芭蕉が亡くなったのは 九州長崎を目指して旅立った途中の大阪ということだったようで、九州へ行きたいとの思いが臨終の床で詠まれた 「旅に病んで 夢は
枯野を かけめぐる」 の背景にあった。
九州にも芭蕉を慕う俳人が多かったというのは芭蕉の時代からで句碑も芭蕉の気持ちに応えたかったとみるべきなのだろう。句碑が多いのもうなづける。ここの句碑の句を選んだことからは百年といわず百五十年後の九州の庭にも芭蕉の気持ちが伝わったことを示したかったそんな想いが響いてくる。
夢は芭蕉を駆け巡ってしまう。その一瞬の雰囲気がおもしろい。俳句が流行るのもそんなところだろうか。
古墳巡りてさくらちる微睡みと
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