神功皇后の存在感が
今年の初詣は元旦に近くの御子神社を訪れた、ここ数年同じで引っ越してからの生活パターンも定まって来た感じがする。3が日はのんびり過ごした後この地の習慣に従ってあと2社を回った。3社参りは明治になって商業的動機で人為的に広められた習わしと言われ、従う理由も無いのだが正月は何か時間がゆったりしていて3社くらい回るのがやはりちょうどいい、1社ではやや物足りない。
福岡周辺の大きなお宮はこれまで順に詣でていたがそういえば宇美八幡にはまだ行っていない。今年はここからかと訪れてみた。
福岡空港の向こう側で、九州高速のすぐ東にあるようだ。ナビで目的地を入れて向かうと難なく到着し駐車場も特には並ばなくて呆気ない。1月も4日ではだいぶ空いてくるようだ。
立派なお宮だ。そもそもは神功皇后が三韓征伐から戻って 後の応神天皇となる御子を産み落としたのがこの地であったことから宇美の名があるという、古事記にはっきりそう記されている。福岡周辺では神功皇后の言い伝えがあちこちで顔を出すような気がするが、ここではこの地域の成立そのものが神功皇后だ。進んで行くと社殿の両側に巨大なクスの巨木が見えてくる。樹齢2000年とされる。確かに縄文杉に漂う異様さがここにも感じる。これはかなり古い。神功皇后も見たに違いないと思えてくる。その時代とつながっている現代をどうしても感じてしまう。すごい。
2日後、神功皇后の残した石がご神体になっている糸島の鎮懐石八幡宮を訪れた。こち
らは神功皇后が新羅征伐に出発するとき懐妊しており出産を遅らせるために二つの石を持参した、そのうちの一つの石のある八幡宮ということになっている。単なる言い伝えでなく万葉集巻五に山上憶良がこの地を訪れた時(西暦730年頃)にこの神功皇后の残した石を見て説明を記し歌を詠んでいる。この時すでにここに石があったことは疑いようがない。(写真は展示されている相当の石、本物は御神体となっていて見れない)
このほかにも福岡市周辺には神功皇后の残したとされる遺跡が幾つかあり、那珂川町にある神功皇后が新羅征伐勝利祈願の神田に水を引くため掘らせたとされる農業用水路「裂田の溝(うなで) 」は現在でも水路として使われていたりもする。神功皇后は福岡周辺では存在感の強い名前となっている。九州以外でも、石上神社に伝わる七支刀(国宝)は百済から神功皇后に贈られたと日本書紀にある七支刀そのものではないかとみられているようでもあり、物的証拠があちこちにあるのも神功皇后の不思議でもある。
それにしても、神功皇后とは何者なのか。古事記・日本書紀では第十四代仲哀天皇の奥方で、九州に熊襲退治に天皇とともに訪れた時に天皇が亡くなり神の啓示を受けて新羅征伐にたった、とされる。首尾よく新羅征伐に成功しこの地に戻った、というのが武功の大筋ということになる。本当だろうかと思うが倭国が新羅を攻めてこれを破り新羅から朝貢を受けるようになったという事実は朝鮮半島側の4世紀後半頃の記録にも残されているようで史実と考えてよさそうだ。それが本当に神功皇后の武功であったかは解らない。神功皇后の話が記載されている古事記は8世紀初めの書物だから古事記が書かれた段階で既に三百数十年経っていたことになり、相当に話が脚色されてしまうのはいかにもありそうな気がする。しかし古事記万葉集の時代までに言い伝えられる程の事跡を残した人物がいたのはほぼ間違いないような気もする。
古事記では神功皇后の母方の生家は出石氏であったとされているようだ。出石氏は新羅王子であった天之日矛(アメノヒコボ)が帰化した所謂渡来人を祖先とする一族とされており元を辿れば朝鮮半島につながることになる。当時の倭と朝鮮半島の三韓は血族的にも強く結びついていたようにも思える。倭と三韓は今の日本と朝鮮半島の様な切れた関係ではなかったようで神功皇后にまつわる話は少なくともそんな雰囲気の中で形作られたと思うとある種のリアリティを感じて来たりもする。
半分本当で半分作り話、そんな世界が九州で見る古代史には立ち込めているようだ。その痕跡がすぐ間近にあるという所が面白い。
それにしても、核ミサイルであれ慰安婦問題であれ北朝鮮が韓国がという話が未だに日々の話題の中で重きをなすのは、歴史的に見れば当然ということかもしれない、これからもずっとこういう立場でお互いを見つめていくのだろう。理解しあうよう努めるほかないのだろう。
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